先日 大垣で不発弾の処理のために 大垣から関ヶ原の間のJRが普通になった。戦争が終わってもう60年以上たっているのに 不発弾? と言うのも驚いたけれど 場所が大垣と言う事にも ちょっと驚いた。 思い当たる事があった
時々勉強会に参加している 関ヶ原エコミュージアムは 伊吹山の麓にある。 木の実の調査をしている時に 道路の脇に お屋敷の門番が良そうなボックスが草むらに隠れて建っているのを不思議に思った。 この辺り 例えばメナードスケートセンター(正式名は違うかも)とかあったと聞いていたのでその名残? それにしては古いぞ。
お屋敷の門だとしたら ずいぶん大きなお屋敷だけれど。。。
やがてここが玉の弾薬庫の門跡と知る。大正三年に開設された正式名を「名古屋陸軍兵器補給廠関ヶ原分廠」と言うらしい。実際に作ったのは玉の住民や関ヶ原の住民 指導に当たったのは岐阜68連隊 後に敦賀19連隊と交代 完成後は第9師団第19連隊の管理下になった・・・と記述があり とても大規模な弾薬庫だった事を思い知らされる。
11月の勉強会のときは鍾乳洞の方まで歩いて来た。すると あるわあるわ 弾薬庫の跡
間違いなく営門だよね。営門がいっぱいある。よほど大きな弾薬庫だったんだろうと見ると 周囲6キロ 面積270ヘクタール で 東洋一の規模だったのだと。。。
今では 当然中身は無いので放置されている。 つまり中を見る事が出来る。
あんまりこういうところ得意では無いのだけれど。。。
さして変った様子はないのだけれど 中へ中へと同じような部屋があるようでだんだん真っ暗で何も見えなくなる。 フラッシュをたいても無理
脇に何かあるような気がしたけれど・・・ ブルぶるっ
更に歩いていくと こんな物が
これも弾薬庫と思えば 向こう側に穴が突き抜けている。 土塁だそうだ
弾薬庫にもしもの事があったら この土塁で付近への被害を食い止めようと。。。
ここにこのような大規模な弾薬庫が作られた背景には 交通の便 回りに小高い山がいくつも連なり 洞窟が作りやすかった等の 好条件があったようだけれど
思えば関ヶ原は大昔から歴史に残る大戦の部隊だった。 壬申の乱の舞台は 近畿地方に大きく広がっているが 大海人皇子が吉野から脱出してきた場所として関ヶ原がある。
歴史に興味が無くても 関ヶ原の戦いを知らない人はいないだろう。 何しろ 大げさに言えば日本を二つに分けての大戦だったのだから
そして陸軍の弾薬庫
何気なく通っていた 近江と美濃を繋ぐ道は いにしえからの大事な道路だった事もさりながら 国を守るために必要なキーポイントでもあったらしい。