黒金門跡をくぐると(ありませんが)大広間跡です。
千畳敷と呼ばれてもいた広い敷地は長さ85メートル 巾35メートル 前面に4メートルの石垣が積まれているそうです。
建物跡 井戸跡 蔵跡などが確認されているとか
ここが淺井の居住場所で有り 淺井三姉弟は ここに暮らしていたようです。 可愛らしい姫様達の声が聞こえるようです。
千畳敷って言うから本当に大広間があるのだと思ったけれど 何軒かの館があったようです。
一段高いところに本丸があります。
一段高い本丸跡から大広間を見ています。
木々がいっぱい植わっているもかなり広いです。
どのくらいの人数が住んでいたのでしょうか? 人数によってはさほど広くも無いような
本丸はあまり広くなかったです。 何層かの建物だったと想像できるそうです。
そのすぐ後ろは大堀切りです。 番屋からここまでを堀切で分けてあるようでした。
看板だけを並べてもなんですが 面白い名前だったので・・・・
御局屋敷跡
そりゃ そのまま御局さんのお家とおもいますがね
馬屋敷から続く帯曲輪で本丸を守る為に作られたそうです。
紛らわしい
この上に京極丸が繋がります。
淺井はもともと京極の家来であり 京極が力をなくしたとは言っても無視できない。
そこで京極の館を自分たちの館よりも高いところに作って大事にしているというスタイルを取ったのだそうです。
江と京極高次がいとこ同士で幼なじみの意味が分った。 高次の母親は長政のお姉さんだったのですから。
京極高次の妹も絶世の美女で(実は淀殿よりも美しかったらしい)秀吉の側室になり・・・・
京極高次はこんなふうに女の人に守られて力を付けていったのでしょうか?
話がそれました。
こんなのを見ると 綺麗な紅葉が悲劇の城小谷城炎上とイメージがダブります。
この池を登っていくと京極丸です。
広さも案外あります。
南北4段の構造
虎口は枡形 一つの城の体裁をなしているように思うのですが・・・・
枡形虎口は水の手に繋がり この道は秀吉が小谷城を攻めるときに駆け上った道だそうです。
ここを攻められたから本丸と 小丸を分断されてしまった・・・・
京極丸のすぐ上にあります。
淺井久政の隠居所です。
京極丸を攻められ本丸と分断されたのでどうしようも無くなって49才で自刃しました。
長政の亡くなった年も29才と若い。29才の肩に 家臣の行く末や家族への責任 家を守ると言う役目等ががかかっていたのかぁ・・・
登り口には崩れたと思われる石垣がありますが 東側に当時の石垣が残っているというので回ってみます。
比較的大きな石を積み上げた石垣で高さは5メートルもあるそうです。
本丸よりも立派と言う事になります。
山王丸が詰めの城と言う役割を担っていたのでしっかり作ったのでしょうか?
残念ながら役に立たなかったみたいですが
古い城の絵図にはここから清水谷へ行く道が書かれているそうです。
戴いたパンフレットのは山王丸から月所丸 六坊に繋がる道が書かれているのでこれのことでしょうか?
普通本丸が一番高いところにあると思っていたので 本丸よりも更に数段も高いところにあるって言うのは不思議です。
山王権現が祀られていたようですけれど
樹間に大嶽城跡が見えます。 これなんて読むんだっけ? おおたけじょうでは無いです。
小谷山の山頂にあたる一番高いところに(標高495メートル)初めの頃は小谷城があったとか
あそこまで山王丸から大下りをして六坊へ その後厳しい登りの後山頂に着くようです。
行く予定だったのですけれどね 山王丸から降りようとしたら思いがけず急下り。 私ちょっと足の踏ん張りが効かなくなっていて ちょっと危ないかも・・・・・
それに朝の渋滞の影響を受けて登り初めが遅かったので もう3時です。
「あかん 止めよう」
と言うわけで 来た道を引き返してきました。 くっく 悔しい~~~
でも正しい判断だったと後で解りました。 後日ベッドから降りることも出来なくなってしまいましたから
治るかどうかは解らないけれど もう少し鍛えて時間にゆとりを持って 何とかもう一度挑戦したいです。