『愛の物語』
『愛の方程式』
『ダウン症の書家・金澤翔子最新作品集』
『金澤翔子伝説のダウン症の書家』
『お母様大好き』
『心は天につながっている』
「愛の物語」金澤翔子書/金澤泰子文
・国連本部で、『世界ダウン症の日』に日本代表として
スピーチをした。アメリカ、中国、カナダ、日本の四か国の代表者が登壇し、テーマは家庭の支援と自立についてであった。言語障害の強い翔子には無理だろうという意見もあったけれど、私は引き受けた。翔子はせっぱ詰まればどんなことも見事にこなしてきたじゃないか、と自分を励ましての結論であった。
・世界一悲しかった母親が遂に娘に向かって、「世界一幸せ」と言えたのですから、私はしみじみと思います。「人生は何が待ち受けているか解らない。生きてさえいれば絶望は無い」と。
そして今年三十歳になった翔子は、六年来の夢、「一人暮らし」を始めました。
・信じるとき、いのちは輝く
「愛の方程式」金澤翔子書/金澤泰子文
・言葉に宿るいのちの輝き
・E=mc2
膨大な幸運のエネルギー=翔子のあの膨大な愛×光速の二乗
「ダウン症の書家・金澤翔子最新作品集 翔子の書」金澤翔子書/金澤泰子文
・俗世に欲望のない無心な翔子の心には、「人に喜んでもらいたい」という愛だけが満ちています。その思いはとても優しく穏やか。
・打ちひしがれる私を見かねて、友人が「その苦しみに耐えうる人に、神様は障害児を授けるんですって」と慰めてくれた。その優しい言葉はありがたかったけれど、障害児を生んだということに耐えられる母親なんていやしないと悲痛に思った。
私は家族が悲しむ姿をみて、責任の重さに耐えかね、ノイローゼ気味の中で、この子を始末しなければと、思い込んだ。・・・
消極的方法の一つにミルクを薄めて衰弱死を・・・などと愚かなことまで考えた。まだ小さい(六か月に満たない)翔子を胸に抱いて薄いミルクをあげると、翔子が小さなお手々を差し伸べて私の頬を支えた。泣きながら抱いている私の涙をぬぐった。そしてこの愚かな母親に微笑み続けてくれた。
・ある小さなお茶会に呼ばれた。そのとき翔子が書いた「法華」という字を葉書にしたものを持っていった。そこに偶然建長寺の管長さんがお見えになり、「これは誰の字だ」とお聞きになった。そこから建長寺で個展をやることになったのだ。
・翔子が大怪我をした。足首の複雑骨折で、四時間に及ぶ手術であった。激痛の恐怖の中で翔子は何かを見て、苦しみを通して違う地平に出たようだ。術後の翔子の目は深く静かで、その遠い視線は私を驚かせた。そして見守る者に「祈って」と言い続けた。祈ってもらうとほんとうに痛みが取れた。ほんとうに・・・。「祈り」の力を信じた翔子を見て、私は「祈る」という言葉の真の意味・真言を知った。真言にはエネルギーがある。言霊とは、きっとこういうことなのだ。
・「心がすべてを決める」。これは、法華経を凝縮した、唯心偈(百字心経)の中の文言。この心の在り様を、いつも翔子に教えられる。
「金澤翔子 伝説のダウン症の書家」金澤翔子書/金澤泰子文
・「無心」の心には無尽蔵に恵みが降りてくるものだ。
・「忘却」が人間に与えられた最大の能力だそうだ。翔子はこの才能に恵まれた。
・(目に見えない)エネルギーに感応するには我欲がなく、他の人の幸せを乞い願う、美しい心でなければならない。
美しい心がどれほどの力を持つのか翔子に教えられる。
「お母様 大好き」金澤翔子著
・お母様、大好き
愛しています。
お母様が好きだから、お母様のところに生まれてきたの。
お母様が笑うと、みんなもにこにこする。
30歳になったら、私、
ディズニーランドの裏で一人暮らしをするけれど、
お母様、毎日遊びに来てください。
ずっと書きます。
神さまがお力を貸してくださいます。
お母様と一緒に。
お父様一緒に。
・翔子の魂は、この世の根源的な唯一のエネルギー「愛」と一体化しているに違いありません。
なぜならば、翔子はいつも不安のない至福の境地にいるのだから・・・。
・親子で新幹線によく乗る。グリーン車のチケットを買っても、翔子は「自由席がいい」言い張る。自由席の自由とフリーダムの自由を取り違えている。
・翔子の父、私の夫は52歳のとき心臓発作で亡くなった。翔子は14歳だった。
・父がいないことが寂しくないかと聞かれると「お父様は天国から全部見ているから大丈夫」と答える翔子さん。
「心は天につながっている ダウン症の書家、愛と雪の贈りもの」金澤翔子書/金澤泰子文
・皆を救った言葉
ある席上揮毫で、翔子の筆が静かに進み、満員の会場が深く静まった。その静けさをひき裂くように突然、一人の男の子が会場に鳴り響いた。五歳くらいのダウン症の子が「わー、おー」と叫び始めたのだ。
この声に会場は緊迫した。彼の声は止まない。どうしたらいいのか・・・誰も心を痛めている。翔子が集中できないのではないかと。人々の不安な気持ちが痛いほど感じられる。
困り果てていると、翔子が書いている筆を止めて、その子に向かって「応援、ありがとう!」と大きな声ではっきりと言った。緊迫していた会場がこの一言で、ホッと柔らかになった。
皆が救われた。あの時、あの状況でこれ以上適切な言葉はなかったろう。天から降りてきたような一言であった。書を書き終えても拍手は鳴り止まらなかった。
・翔子誕生から三十年、ひたすら祈ってきた。
祈ることが私の仕事であった。
・大仏様はお父様
翔子が十四歳の冬の朝、父親が突然に心臓発作で倒れ、亡くなってしまった。その直後に行った修学旅行で、翔子は奈良の東大寺の大仏様を見て、父親だと思い込んだ。頬がふっくらした父親と大仏様はどことなく似ている。
それから数年後。「お父様の前で書きたいな」と翔子がぽつんと言った。翔子は大仏様の前で書いてみたいのだと、私は驚きとともに理解した。
「いつか書こうね」と答えてみたものの、東大寺の大仏様の前での席上揮毫なんて絶対に不可能だ、と私は思っていた。しかしその後、大きなご縁を得て東大寺で個展が開かれ、念願の「お父様の前で書きたい」という思いが叶った。
叶う筈のない想いが実現し、大仏様の前で揮毫する翔子に眩しいほどの陽光が差した。
・あれこれ悩んでいると、翔子が「神様が全部決めるよ」と言う。確かに神様の決める運命に逆らえない時がある。永い間、感謝の祈りを続けていたある日、神様が私に教えてくれた。「欲望で未来を予測してはいけない、誓いを立ててもいけない。今だけ(而今/じこん)に全霊を注いで生きるのだよ」
そして、「終わったことはそれでよかったのだから、悔やんだりすることはない。思い煩わなければ、その時に最大の能力が出るのだよ」とも教えてくれた。
このように而今に生きれば無心になれるのでしょう。翔子のように無心で神様にすべてを任せ、何にも囚われなければ、不安や憂いがない。
而今に生きると時空がいつも自分と併行に進み、その時、100パーセントの大きな力が発揮される。翔子が而今のことを教えてくれた。
・自立する翔子
「三十歳になったら、一人で暮らします」
六年前からの翔子の公約。知的障害者ゆえに翔子の自立に向けて二人で厳しく生きてきた。三十歳を迎え、いよいよ一人暮らしの開始。胸躍らせての部屋探し。しかしどこへ行っても「障害者に部屋を貸すことは難しい」と言われた。この事実に私は青ざめた。
私は愚かであった。翔子が障害者だという重大な事実をすっかり忘れていた。
・大丈夫
翔子が「悲しい日記本です」と言って、講演会場で本の販売をしていた。この本はダウン症と告知された日から苦しさのあまり綴り始めた私の日記です。
「なぜ悲しい本なの?」と聞くと、「お母様は私が生まれて一緒に死のうとしたでしょう。私は、私の赤ちゃんと死のうとは思わない、生きる!」と言った。
ああ・・・難しい本は読めないと思っていたのに、密かに読んでいたのだ。翔子は今まで言わなかったけれど、出生後の愚かな母の思いの秘密を知ってしまったのだ。
でも、この抽象的な本を読んでいたなんて嬉しい、。知性は低いと諦めていたのに、大丈夫だ。この世に絶望なんてない。ダウン症児のお母さんたちへ、また嬉しいお知らせができる。
感想;
本を読んだ感想は、金澤翔子さんは”純粋”、仏教でいう”
三毒「 無欲、他の人の幸せを願う。
多くのことを教えていただいたように思います。
書にも、その言葉の意味が表現されているように思います。
いろいろな浮世をうまくやらなければいけないと思う心に雑念が生じているのかもしれません。
ダウン症の子ども、自閉症の子どもたちと接する機会はほとんどありません。
私が初めて接したのは、入院児と遊ぶボランティアをして、入院しているダウン症や自閉症の子どもと遊んだのが初めてでした。
ドキュメントでダウン症の子の就労を取り上げていました。
パン作りをしていました。
記者が「美味しいパンを作る秘訣は?」と尋ねました。
ダウン症の女の子は「愛を込めるの」と答えました。
その言葉は真髄だと思いました。
それと教育/学び、訓練/練習は改めて大きいなと思いました。
自分で自分のことをされています。
できないと諦めるのではなく、そのために時間をかけることなのでしょう。
できないのは、そのために時間とお金を使ってこなかっただけのように思います。
何に大切な時間とお金を使うかなのでしょう。
その人が時間とお金を何に使っているかを見れが、その人が分かると言います。
それとチャレンジすること。自分でガラスの天井を設けないこと。
恥をかいてもよいと。
歳をとるということは、新しいことにチャレンジすることが出来なくなっていくことなのでしょう。