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「心理療法家の人類学 こころの専門家はいかにして作られるか」ジェイムス・デイビス著

2022-02-24 03:42:42 | 本の紹介
・治療者の行為を制限するもう一つの原則は、自己開示の禁止である。特定の人間性心理療法の治療者が自己開示を技法として用いるにに対し(それは関係を深めるための方法としてみんされている)、精神分析て心理療法家は、いまだにそれを避けるのが一般的です。

・「分析家が患者からの質問に答えようとしないことを、分析家の冷淡さや、力関係の違いを維持したい欲望の証拠であると解釈する人がいます。しかし、こうした解釈は、なぜそれが、患者にとって本質的に重要であるかについて、理解できていないことの現れです。
「質問に答えるのではなく、分析家の考えに対する彼の空想を聞くのである」。彼らの空想には、転移の重要な手がかりがあり、もし分析家が自分の不安から答えてしまえば、見失われてしまいます。質問に答えてしまうことは、最悪の場合は天うぃお破壊してしまいますし、せいぞう質問を続けることを患者に促すだけであり、これはちりゅお的交流を一種の会話にしてしまうことであって、よくないことです。

・逆転移とは、治療者が完璧な客観性に至ることができるという考えに異議を唱えるひときわ優れた現象だといっておけば十分だろう。逆転移の存在を認めることはおのずと、治療者が主観性の侵入から逃れないことを認めることになる。
(転移;患者⇒治療者への感情、逆転移;治療者⇒患者への感情)

・「修辞的アイロニー」(二つの意味を持つ)
患者が自らの欲望を満たすために、症状を戦略的に使用していることを治療者が解釈する際に見られる、仮病によって両親の同情をひくことを学んだ子供は、のちにそのときのことを忘れてしまっても、困ったときに注意や心配を向けてもらうために無意識にこの方略を用いることだろう。

・「劇的アイロニー」(観客は知っているのに登場人物は知らない)
患者は、自分が完全には知らず、理解もしていない幼児的欲求に支配されているということを提示される。
こうした解釈を通して、患者は、自分の行為には、意識では受け入れがたいような動悸が隠されていることを学ぶのである。

・専門家が、患者の悲運や治療の失敗の責任を負うことを求められたとき、生じてくる罪悪感にはいくつかのレベルがあります。・・・それも仕事の一部なのです。患者がもはや生活で仕事を楽しめないのに、どうして自分はそれができようか? というものです。ほかにも、患者の悲しい結果に寄与したかもしれない自分自身のうちの敵意に対する罪悪感もあります。もう一つは、最善を尽くしていなかったことへの罪悪感です・・・。(Charny)

・欲動理論は、私たちにとってのいわば神話学のようなものです。欲動は神話のような存在でして、その不分明さたるや実に途方もないものです。私たちの仕事では、これら欲動からは一瞬たりとも目をさらすことは許されないのですが、そのようにしていてもなお、これらをきちんと見据えているという確信はもてないのです。

・大多数の心理療法家がさらなる個人分析を求めるのは、専門家としてのキャリアのためだけでなく、自分自身の個人的な問題を解決するためでもあった。多くの心理療法家にとって、自己探求は訓練と共に終わるのではなく、個人分析を通して続けられるのである。そして、心理療法は神話に支えられているものあるので、個人分析をを受け続けることで、その神話は心理療法家に個人的成長をもたらすことになる。

心理療法の神話―心理療法家の人類学
http://stc-room.blogspot.com/2018/05/blog-post_12.html

「心理療法家になるとはどういうことか?」これが本書の問いだ。それは凡庸な問いではある。実際、「心理療法家になること」について書かれた本を、私たちは山ほどもっている。

いかなる理論を学び、いかなる技法を身につければ心理療法家になれるのか。あるいは、いかなる訓練を受ければ心理療法家になれるのか。良き心理療法家とはいかなるもので、悪しき心理療法家とはいかなるものであるのか。

そういったことが書き連ねられた教科書を私たちのコミュニティはすでに多すぎるほど所有している。ただし、そこで描かれているのは、あくまで心理療法家についての心理学的な次元での理解だ。

たとえば、「なぜ心理療法家になるために、自分自身が心理療法を受けなくてはならないのか?」この問いに対して、逆転移を利用できるようになるために、自らの無意識的なありようの理解を深めておく必要がある、などと心理学的な語彙によって心理学的な文脈での説明がなされる(この点はいろいろな説があるが、ここでは触れない)。

しかし、本書は違う。本書は「心理療法家になること」を社会の側から説明する。心理療法家の内側にうごめく心の力動ではなく、心理療法家を取り囲む社会の力動を解き明かそうとするのである。

だから、本書が注目するのは訓練機関だ。訓練機関はいかにして心理療法家を作り出すのか?そのとき、訓練生に対していかなる介入や、いかなる操作が行われているのか?その結果、訓練生はいかなる変容を遂げるのか?そして、訓練機関がそのように振る舞うのにはいかなる社会的合理性があるのか?そのようなことが本書では問われている。

「なぜ心理療法家になるために、自分自身が心理療法を受けなくてはならないのか?」この問いに対するデイビスの答えは、「そのようにして訓練生は心理療法的想像力を内面化するから」であり、「心理療法を受けてよい体験だった人のみが、その学派の心理療法家になっていくという一種の審査になるから」というものである。

デイビスは、心理療法家のことを、心理療法の世界観を自分の人生に深く浸透させた人間なのだと捉えている。

心理療法家は心理療法に癒され続け、心理療法の教える生き方に従う。そうすることで、心理療法と心理療法家共同体を肯定し、未来にわたって保全していく。そこでは、心理療法家のパーソナリティの奥底にまで心理療法の「神話」が染み渡っている。


そう、デイビスは心理療法が抱いている世界観のことを、「神話」と表現している。

例えば、精神分析は「無意識」を理論の基盤に据えているわけだが、それは精神分析の「神話」だと位置づけられる。そこでは、心理療法の世界観はある種のナラティブとして受け取られている。

訓練機関は訓練生に神話を埋め込む。深く、硬く、確からしく。

そのために、訓練機関は様々な仕掛け・装置を用いている。

デイビスはフランスの社会学者ブルデューの「ディスポジション」や「ハビトゥス」という概念を下敷きにしながら、そのような教育装置を次々と露わにしていく。

「パーソンフッド」「系譜的構造」「心理療法的想像力」「疑惑のマネジメント」「精神分析的病因論」などがそれに当たる。

詳細は該当部分をお読みいただきたいが、本書の面白さはそれらの教育装置によって変容し、心理療法家へとかたどられていく訓練生たちの生身の声が至るところで響いていることだ。

しかも、デイビスが描いているのはロンドンの訓練生たちであるはずなのに、それは日本で私たちが体験していることと全く同じことであるから、面白い。

初めてのケースでクライエントが来なかったときの極度の不安。
指導者から自分がどのように評価されているのかにまつわる困惑。
心理学用語を仲間内のプライベートな場面でも使っているときの楽しさ。
家では親であり、職場では責任ある役割を担っていても、研修会にいくと突然子供に戻ってしまったような気持ちがする戸惑い。
自分と違う学派を批判するときに生じる有能感。
自分が人格的に心理療法家に適していないのではないかという自責感。

心理療法家にかたどられようとするときの窮屈さ、不安や不満、みじめさ。そして満足や喜びをデイビスは丹念に記述する。

それはロンドンの訓練生と日本の大学院生に共通する、心理療法家になろうとする人々が抱える普遍的な葛藤だ(日本では訓練前にセラピーを受けることが義務付けられてはいないのが大きな違いだが、それでも同じような葛藤を抱くあたりが面白いところだ)。

繰り返すが、本書はそれらの葛藤を心理学的に解釈したりはしない。つまり、それらを訓練生のパーソナリティの問題として心理学的次元に還元したりしない。

そうではなく、それらを訓練機関や心理療法家共同体がもたらす社会的相互作用の帰結として捉える。そのようにして、心理療法の神話を内面化した主体が立ち上げられると理解する。ここが本書の真骨頂であり、同時に読者に困惑を引き起こすところだと思われる。

私自身もそうだ。例えば、「疑惑のマネジメント」を論じている5章を思い出してほしい。そこに出てくるジョンやマーガレット、ヤングといった心理療法家共同体に反抗する人たちのことを、私もまたナルシシスティックだったり、被害的だったり、エディプス葛藤が未解決だったりと一読して感じた。

心理療法に対する反抗が生じたときに、私たちはつい個人のパーソナリティの方に着目して、心理学的に理解しようとしてしまう。私もまた、そういう心理療法の神話の中で生きているということだ(当然なのだが)。

デイビスはこの点を注意深く語っている。すなわち、取り上げられた事例は、他の分析家、他の訓練機関だったなら、当然違った対応がありえた。

注目すべきは、個々の対応の問題ではなく、心理療法家共同体が反逆者と直面したときに使用するロジックが、いつも同じ形をしているということだ。

キリスト教会が反逆者を「悪魔が憑いている」という霊的論理でとらえて処理していくように、心理療法は反逆者を心理学理論の範囲で理解し、マネージする。神話への疑惑は神話の論理によって処理されるのである。そのようにすることで、心理療法家共同体とその神話は守られる。心理療法家は再び神話を生きることができる。

本書は主に精神分析を扱っているが、認知行動療法家やブリーフセラピストにあっても神話を生きていることについては同様だと思われる。

実際、認知行動療法家の集まりには認知行動療法のエートスがあり、ブリーフセラピストの集まりにはブリーフセラピーの民族性のようなものが確かにある。認知行動療法の神話、ブリーフセラピーの神話があって、それが彼らのパーソナリティに浸透している。実際、インフォーマルな場で話をすると、彼らが自分自身の問題に対して、認知行動療法やブリーフセラピーによって対処しているのがわかる。

この点が、「心理療法家になる」ことの特異性だ。それは物理学者になったり、起業家になったりすることとは違う。

彼らも彼らで独自の神話を生きているのだけど、心理療法家は扱う対象が「心」であり「パーソナリティ」であることによって、その神話を自身の「心」と「パーソナリティ」の根底の部分にまで浸透させなくてはならないのである。

まとめよう。人類学者に見られると、心理療法が神話の営みであり、心理療法家がその司祭であるように見えてくる。

そして、神話はそれが生きられているときには「現実」を提供してくれるが、「神話である」と指摘されると途端にただの「おはなし」になってしまう。

これこそがポストモダンだ。大きな物語が解体して、小さな物語が満ち溢れる。神話は複数のおはなしの一つにしか過ぎなくなる。それは不確実さをもたらす。だからこそ、心理療法は人類学者に見られることを拒んできたのである。

感想
東畑開人[監訳]です。

心理療法家は自分の人生における問題をどのように解決していくかも問われているのでしょう。

この本で気になった箇所と言葉を拾ってみました。
アイロニーにもいくつかの種類があるようです。

アイロニーとは何ですか?
https://ja.eferrit.com/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%AD%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%81%A8%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%81%A7%E3%81%99%E3%81%8B%EF%BC%9F/

アイロニーの定義と種類
アイロニーの3つの基本的な特徴

アイロニーの単純な定義の主な障害は、アイロニーが単純な現象ではないという事実です。 。 。 。 私たちは今、すべての皮肉の基本的な特徴として、
(i)外観と現実のコントラスト、
(ii)外観が外観に過ぎないことを自信不認識(皮肉主義者の偽り、皮肉の犠牲者の真実)
(iii)対照的な見た目と現実とのこの認識不能のコミック効果。
(Douglas Colin Muecke、 Irony 、Methuen Publishing、1970)
アイロニーの5つの種類
古代から3種類の皮肉が認められている。
(1) ソクラテスの皮肉 。 議論に勝つために採用された無邪気で無知のマスク。 。 。 。
(2) 劇的で悲劇的な皮肉 、演劇や現実の状況で何が起こっているの二重のビジョン。 。 。 。
(3) 言語的アイロニー 、意味の二元性、今は皮肉の古典形。
Romansは、劇的な皮肉のアイデアを基にして、言語はしばしば最初のものに反して走っている二重のメッセージ、しばしば嘲笑的または冷笑的な意味を持っていると結論づけました。 。 。 。

現代では、さらに2つの概念が追加されています。
(1) 構造的アイロニー 、テキストに組み込まれた品質。素朴な語り手の観察は状況の深い意味を指します。 。 。 。
(2)作家が小説、映画などのプロットで起こっていることの二重のビジョンを共有するために読者と共謀するロマンチックな皮肉
(トム・マッカーサー、 オックスフォード・コンパニオン、英語版オックスフォード大学出版、1992年)
アイロニーを適用する
アイロニーの一般的な特徴は、その反対を表現することによって何かを理解することです。 したがって、この修辞的形式を適用する3つの別々の方法を分離することができます。
アイロニーとは、
(1)個々の人物像 ( 卑猥な 言葉 )を指します。
(2)生命を解釈するための特別な方法( ビタミン剤 )。
(3)全体としての存在( 嫌悪感 )。 皮肉、 象徴 、普遍的なパラダイムの三次元は、修辞的、実在的、そして存在論的なものとして理解することができます。
(Peter L. Oesterreich、 "Irony"、 修辞学百科事典、 Thomas O. Sloane編、Oxford University Press、2001)
アイロニーのメタファー
アイロニーは褒め言葉の形で伝えられた侮辱であり、扇形の言葉の下で最も嫌な風刺を喚起している。 その被害者を裸の花びらとシソのベッドに置き、薄く薔薇の葉で覆った。 彼の眉を彼の脳に燃える金の王冠で飾る。 怒らせて、怒らせて、怒らせて、マスクしたバッテリーから絶え間なく熱いショットを吐き出しながら彼をくすぐる。 彼の心の最も敏感で収縮的な神経を裸で寝かせ、そしてそれらを氷で軽く触れたり、笑顔でそれらを針で刺す。
(James Hogg、 ホッグのインストラクター 、1850年の 「Wit and Humor」)

アイロニー:伝統的なアプローチと最近のアプローチ(1)
https://ci.nii.ac.jp/naid/110004645601

Traditional and Recent Approaches to Irony (1)
村越 行雄 MURAKOSHI Yukio 跡見学園女子大学英文学科
抄録
アイロニーは, 私たちが日常的に使用している表現方法の一つであり, 古代ギリシャ時代から現在に至るまで, 継続的に使用されてきた表現方法であって, レトリックにおいて重要な位置を占めている。一見すると, 「反語」という日本語訳に示されているように, 言ったことの反対のことを意味するものであると簡単に片付けられるように思われるが, 果たしてそうなのであろうか。最近, 「アイロニー」という日本語訳がよく使われているが, 何か意味があるのであろうか。「皮肉」という日本語訳は, どうなのであろうか。単純に見えるアイロニーの定義は, 調べてみると, 決して単純なものではないことに気が付く。そこで, アイロニーに関する定義を明らかにする意味で, 今までになされてきたアプローチを幾つか取り上げて, 検討していくことにする。なお, 本稿では, 言葉によるアイロニーに限定して検討していくことにする。具体的には, 「1. はじめに」に続く「2. 伝統的なアプローチ」では, 「2-1. 最近の文献に見られるアイロニー」において, 代表的な語用論の概説書, 入門書などに見られるアイロニーの定義を調べ, 「2-2. アイロニーの古典的定義」において, 古代ギリシャ・ローマ時代に見られる古典的定義の多面性を調べ, 「2-3. アイロニーの伝統的定義」において, 「2-3-1. Grice と Searle の定義」として, 反対という概念による定義に関連して, よく引き合いに出されるGrice の定義と Searle の定義を調べ, 「2-3-2. 反対という概念による定義への批判」として, 字義どおりの意味などに関連して, 二・三の問題を取り上げ, 反対という概念による定義への批判を調べ, 更に「3. 最近のアプローチ」では, 「3-1. アイロニーの特徴」において, 話し手の態度と目的などを調べ, 「3-2. アイロニーの種類」において, 非字義的アイロニーと字義的アイロニーへの分類法の意味について調べ, 「3-3. 最近のアイロニーの定義」において, Sperber &Wilson のエコーという概念による定義を調べ, 「4. おわりに」で終えるという検討順序である。なお, 今回は, 前半部分のみを発表し, 後半部分は次号に回すことにする

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