・妻はこの夫の言語化していない思い(=文脈)に気づいていないので、夕食後宿題をやるように子どもに説得していたところを夫から突然怒鳴られ蹴られたと思う。その際に妻は蹴られた痛みではなく、夫の言葉や行為に驚き、いっぽうで殺されるかもしれないという恐怖に圧倒される。
このような経験を積み重ねるうちに、家族内の暴力被害者たちは、予測不能性に伴う恐怖と、夫に『お前が悪い』と言われ続け内面化された自責感、夫の怒りを誘発する地雷を二度と踏まないための緊張感で圧倒されるようになる。夫の暴力は妻の文脈性を切断するのだ。
・つまり暴力による痛みは、事後的に「痛かったのだ」と文脈化され始めて経験されることになる。言い換えれば、暴力が経ち切った文脈は、事後的に感取された痛みによって再び文脈化するのである。後述する自傷行為はある文脈性という観点から説明できるだろう。
・何より私が困っていたのがリストカットである。左手の手首から下には何本もの切り傷があり、治りかけると瘡蓋をはがしてまた切るといった行為を繰り返していた。これまでの経験から「やめましょうね」などと言ってもなんの効果もないことを知っていたので、思い余った私は「死なないように切ってね」と言った。・・・
ピアノを学びなおすために彼女は一人暮らしを始めた。親は迷ったが「この子は死ぬかもしれないが、それでもやりたいことをやらせてみよう」と覚悟して家を出した。その後極限までやせ、栄養不良でむくんだ足のあちこちから歩くたびにピューッと水(内分泌液だろう)が飛び出るようになった。身体的に限界がきたと思った彼女は自ら救急車を呼び内科病院に入院した。病室には高齢女性が多く、その人たちは病院食を毎回両手を合わせておがんでから食べていた。そんな姿を見るうちに、彼女は少しずつ食事が摂れるようになった。こうして回復し始めたのである。
先日四年ぶりに会う機会があった。結婚してふっくらした彼女が笑いながら言った。「ときどき夏になると腕の傷痕を見るんですよ。もう一度切ってみようかなんて思うんですけど、たぶん痛くてだめですね」。
・手頸を切ったあとは「このうえもなく安らか」になる。
・記念日反応の言葉は、援助者のあいだではよく知られており、カウンセリングでは珍しい事態ではない。大きな出来事が起きた日が近づくと、さまざまな負の反応が起きることを指す。
・こうして敗北・被害を「なかったこと」にすることは、一見前向きに見えるが、実は人間としてのもっとも大切な感覚を麻ひさせ鈍麻させることなのかもしれない。その鈍麻ゆえに周囲の人間への支配に無自覚になることは、多くの母たちの尊大さと自己懐疑のなさに表れている。
・アディクションアプローチのキーワード
①家族ファースト
誰が病者かを診断し見立てるのではなく、もっとも困っている家族をファーストクライエントと位置づける。
②「底つき」概念
自分の行為の結果を本人に突きつける。アディクションをやめて生きるかそれとも死かというギリギリの地点に直面することで回復に向かうことを表す。いわば援助不要論でもある。
③イネーブリング
「~のために」という愛情に満ちた好意が、底つきを防げ、開腹を阻害するという、いわば援助有害論である。
④自助グループ
当事者のグループとの境界設定、協働、連携なくして専門家の援助は在立しないという当事者先行を表す。
以上の四点は、専門家の役割、家族の愛憎、治療行為のパラダイム転換を促す。このラディカルさが、多くの援助者のアディクションは難しいという先入観につながり、専門家に忌避されがちだった理由だろう。
・家族への心理教育とグループカウンセリング
まず必要な援助は、ギャンブル依存症の全体像と対応の概略を学ぶ機会を提供することである。
・ギャンブル依存症の家族の場合、対応ポイントをいくつか挙げよう。
①尻ぬぐいしない(お金を出さない)
②即答を避ける 「少し考えさせてください」
③交換条件を恐れない
「私の勧めるカウンセリングにとりあえず一回行ってください。そのことを確認してからお金を出します」
・その場合の子どもが親を責める決め台詞は「なぜ嘘をついた」だった。
・親のことを秘密にする子どもたち(アダルト・チルドレン)
・ノルウェーの絵本『パパと怒り鬼-話してごらん、だれかに』
・そのような性被害待被害者との出会いを通して、決して嘘という判断だけはするまい、万が一騙されたのであってもそれでいい、語られることは全て信じるところから出発しようと決心したのだ。それが「嘘」という言葉に対する筆者の基本的姿勢となっている。
このことが全国の虐待通報件数を大きく押し上げることになり、メディアも注目するようになった。2017年度上半期警察庁まとめによれば、通報された18歳未満の子どもは初めて3万人を超え、その70%が心理的虐待で、さらにその70%を面前DVが占めるという。
・DVは長く続くわけではない、30分後、もしくは翌日には何もなかったように両親が和やかに過ごす時間もあるだろう。子どもはしかし、それに心底安心できるわけではない、この世界も父の機嫌しだいで、母のひとことで、すぐにもろく壊れてしまう、とう思っている。再び到来する事態に向けていつも覚悟し準備していなければならない。夢が破れる苦悩を味わうことになるからだ。このことがトラウマ反応のひとつである過覚醒をもたらす。もっと残酷なことに、両親が一見平和なときは心から安心しているというふりをしなければならないことだ。特に母親を心配させないためには、元気で何も覚えていない天真爛漫な子どもを演じなけれがならない。そのことの負担・負荷にはほとんど親や大人は気づいていない。
・『私は親のようにならない』C・ブラック著
・なぜ親をケアし支えるのか
ひとつの理由は世界が壊れないためにである。自分の保護者である親の生命危機は世界の崩壊を意味するため、子どもがそれを防ぐために世界を支えるのである。世界とは親のことだ。
・特に女性の場合は、ケア役割を担うのは女性であるとうジェンダー規範もそれについてまわる。
・YC(ヤングケアラー)との面談において必要なこと
①「よくやってきましたね」とケア行為を評価すること。
②「どのようなことを、どのようにしてきたのかを聞かせてくれますか」と伝える。
③「どんな苦労があったんでしょう」と質問をする。
・自助グループでの「言いっぱなし、聞きっぱななし」を一周目に取り入れている点が大きな特徴だ。
後半は、ファシリテーターとしてコメントするようにしているが、筆者の役割は何よりも場の安全性の確保だと考えている。どんな発話内容でも否定されないための防御壁になること、そして参加者の一週間の行動を肯定的に評価する言葉を忘れず、とにかく、ねぎらうことが不可欠である。
・習慣的にアルコールを飲んで家族を困らせる父親、その妻である母親と子どもたち。この三者それぞれに対して、依存症、共依存、アドルと・チルドレン(AC)という別個の名前がつけられた。
・育児機能を主として担うのは母親であるという前提で述べたい。自分自身が抱える問題で母親がせいいっぱいになる場合には、次の四種類が考えられる。
①なんらかの心理的精神的な問題がある
②母親がDVを受けている
③貧困の影響
④自分と親との関係に翻弄されてしまう
・『月白の道』丸山豊著
「私たちはおたがいに心の虫歯をもっていたほうがよい。ズキズキと虫歯がいたむたびに、心のおくの一番大切なところが目ざめてくる」
・DVと虐待は、名前こそ違っても、一つの家庭の中で起こる「家族の暴力」です。
・そもそも加害者は、配偶者を殴ってもそれがDVに当たるなどとは思わず、殴らせる相手が悪いと思っていますので、それがDVと指摘されると逆切れします。いっぽう、殴られている人は自分が悪いからだと信じているので、自らを責めるばかりでそれ以外の世界や生き方を想像することができません。
・ではなぜ、加害者は家族に対して暴力を振るうのでしょうか。心理学では、幼いころに親との関係で安定感や安心感を獲得できなかったことを「
アタッチメント形成不全」と呼びます。これはいわゆる愛情不足ではなく、あくまで子どもにとっての安心感が欠如していることを指しています。この人たちが成長し、親になった時、自分の子が泣き止まなかったり、言うことを聞かないといった不快な反応を示すと、ケアや優しさではんく、「自分の存在を否定された」「敵意を向けられた」と感じて、子どもに対して怒りや不快感を示してしまう場合があります。配偶者に対しても同様の反応を示せば、これが虐待やDVになる危険性は高いでしょう。全ての加害者に当てはまるわけではありませんが、幼少時のアタッチメントの欠如はその後の家庭生活に深刻な影響を及ぼすのです。
・参加者の多くは「怒りを我慢する方法を勉強しにきました」と語りますが、大切なのは、怒りの感情を抑えたり、封じ込めたりすることではありません。怒るのはどんな認知によるのかを知り、それを変えることです。
もう一つは、怒りを感じた時、その表現を変えることです。怒りを暴力・怒鳴る・無視といった行為でしか伝えられない選択肢の貧弱さが、DVとなります。そもそも怒りを完全になくすことは不可能ですし、感情に善悪はありません。相手を傷つけない、怯えさせない表現方法こそ、人間であることの証明でしょう。
・私たちのような開業心理相談機関として経済的自立を果たしている存在が稀であることもあまり知られていない。
・DV加害者プログラムの参加男性たちの言葉を借りればこのようになる。
「妻は自分のことをDV加害者だというが、むしろ自分のほうが被害者だ」
「これだけ普段我慢しているのに、それを理解しようとせずにあんな口調で言われたら誰でもキレますよ」
・加害者は加害記憶を喪失する。しかし被害者は死ぬまでそれを抱える。これは筆者の正直な実感である。
・表紙を飾った三枚の絵(筆者の本)
わたしは
エゴン・シーレの絵が好きだ。多くの彼の絵には、まるで摂食障害者のような体躯の人物ばかりが描かれている。挑むような視線、形骸だけの肉体、そして装飾を削ぎ落したかのような表情の人物像は、まるで彼が21世紀の未来をすでに予見していたかのような錯覚におちるらせる。
感想;
本を読むということは知らないことを知ることなのでしょう。
そして自分の意識できる想像の世界が広がるように感じました。
信田さよ子さんを知りませんでしたが、虐待に取り組んでいる人々の間では有名な方だったようです。
これまでいろいろ本を読んできましたが、その本からはつながりませんでした。最近読んだ本に紹介されていて読みました。
対面DVのこと。加害者は暴力振るわせたお前が悪いと思っていること、などなど知らないことが多くありました。
エゴン・シーレの作品も知りませんでした。信田さよ子さんが言われるように、心に重い何かを抱えている印象を受けました。
自分が知らないことがあることを知ることが大切なのでしょう。
そして自分の考えだけが考えではない。もっと違った考えもある。
自分はそれが一番良いと思っていても、実はそうでない見方や考え方がある。
そのためには本を読む、他の人のアドバイスを求める。
また自分で自分の気持ちを書いたり、話したりすることで自分を客観的に知ることもできるのでしょう。
易占(『易経』)は筮竹で占ったのを四書五経の一つ『易経』に書いてあることを当てはめて、自分のこれからの行動に色々な視点を与えてくれて、自分の選択をより良いものにしていくものだと知りました。
占い、カウンセリングなどもそれを信じることよりも、自分の視点を広げることに活用できるとよいなあと思いました。
貧困、虐待、DVなどの連鎖(親から子へ)が続いているように思います。
経ち切るには、政治と教育を今一度見直す必要があるように思います。
それと自ら学び続けることが自分の、自分の周りの人を幸せにするためには必須のように思いました。