英の放電日記

将棋、スポーツ、テレビ等、日々感じること。発信というより放電に近い戯言。

将棋雑感 ~解説者と聞き手②~

2012-01-19 19:44:59 | 将棋
間が空いてしまいましたが、『解説者と聞き手①』の続きです。

 前回は、形勢判断の誤った解説は、その将棋の価値(内容)を歪めてしまう。例えば、A棋士が微差のリードを保ち続け、そのまま勝ち切ったという将棋があったとします。しかし、解説者が形勢を見誤り、「優勢であったBが最後に間違え、逆転負けした」という解説をしたとしたら、観戦者は「Bが惜しい将棋を落とした」とか「AはBのミスに救われ勝ちを拾った」という記憶が残ります。実際はAの会心譜であったのにもかかわらず。
 こういう状況は、避けて欲しいと、力説しました。で、今回は「こういう解説(解説者)は困るなあ」と思い浮かぶ例を挙げてみたいと思います。

 まず、思い浮かぶのは年が明けて開幕した王将戦(久保王将・棋王×佐藤九段)の第1局。
 この将棋は、序盤、玉自ら5筋の歩を死守する▲5七玉から、佐藤九段が奔放、自在の指し回しで局面をリードし徐々にリードを広げるという会心譜であった。しかし、控室の評価は揺れていた。特に、△3三歩と先手の3四の銀を仕留めた辺りは、銀得の久保二冠が有望との声も出ていた。
 中盤以降は佐藤九段が優勢との評価が固まりつつあったが、終盤、久保二冠の中央突破が受けにくくなると、俄然、形勢が怪しくなってきたとのコメントも記されていた。実際は、中央突破は肩透しの形となり、佐藤九段が順当に勝ち切った。(佐藤九段の素晴らしい指し回し、出来れば他の記事で取り上げたいです)
 この辺りの解説のあやふやさは、ネット中継における解説(コメント)の体制が不明で、安易に責めることはできない。解説料を貰っての解説ならば、責任を負わなければならないが、その場に居合わせた棋士が善意で語ってくれた言葉であったり、単に控室の研究出の言葉を拾っただけということもあるかもしれない。
 大概のネット中継の解説は、感想戦での結論や対局者の感想も載せてくれるので、後日、確認すれば、誤った認識は正される。ネット中継で解説を読むようなファンは、後日再チェックする率は高いと思われるので、誤った認識のままでいる危険性は低いのかもしれない。
 でも、リアルタイムでのあまり的外れな形勢判断は避けて欲しい。かと言って、あまりに正確な解説も、ドキドキ感がなくなってしまう。(我儘なやつ)
 最終盤、詰むや詰まざるかの局面で、ボンクラーズ(コンピュータソフト)に「25手までの詰みがあります」などと断言されてしまうのはつまらない。

 この他、解説で頭に浮かぶのは、NHK杯戦の久保棋王・王将×森内名人。この将棋、序盤、森内名人の巧みな指し回し(誘導)で、久保二冠が窮地に立たされた局面もあったが、開き直りの端歩突きが森内名人の変調を呼び、機を捕らえた久保二冠が一気に森内玉がピンチに追い込み、仕留めるか逃れるかのギリギリの攻防が続いた。結局、久保二冠が押し切った形で勝利した。
 解説者が米長会長。含蓄のあるコクのある面白い解説であったが、含蓄があり過ぎて、形勢や寄せ切ったのが受け損なったのかの真偽が、さっぱり分からなかった。誤った解説よりは良いが、残念な解説だった。
 この他としては、先崎八段が思い浮かぶ。氏の解説は、断定的で分かりやすい。例えも巧みで面白い。
 しかし、精度に欠けているように感じる。一目で大体の局勢や指し手は浮かぶのは流石であるが、名人戦や竜王戦の難解な局面においては、即断して論じるのは辛いように思われる。気風の良さは評価したいが、読み切っていないまま結論を口にして、解説を始めるが、迷走することもしばしば見られる。
 羽生王位・棋聖と同年代で、羽生二冠の事をよく知っているせいか、羽生二冠の対局の解説者として声が掛かることが多いが、個人的にはガッカリしてしまう。


 最後は個人攻撃みたいな記事になってしまいましたが、そのつもりはありません。元ライバルとか、よく知っているとかいう理由より、高度で難解な将棋を解説出来得るという条件で解説者を選んで欲しいと、切に思います。
コメント (10)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする