本作、描き方の偏りに不満を感じる方も多いと思う。
主人公は官兵衛なので、エピソードが官兵衛中心になることに異は唱えない。しかし、信長・秀吉周辺に官兵衛とあまり関係のないと思われるシーンが多いと感じられる。脚本家や制作サイドの好み(事情)なのかもしれない。
今話は
道薫(村重)が主役。しかも、村重を材料に、秀吉、茶々(淀)、官兵衛、右近に生き方を問いかけていて、なかなかの作りであった。
村重(道薫)の人生観
「あれ以来、それがしの時は止まったまま」という道薫。≪生きたい≫という人間の欲によって、死ぬこともできず“生きた屍”という状態。我が子・又兵衛と対面しても、心の揺れを見せながらも「それがしに子なぞおらぬ」と言い、場を去っていく。
茶々が唯一関心を示した道薫に茶々に人生を語らせる
「妻や家臣を捨て、何故この世に生きながらえているのか?」
という茶々の問いに
「死にたくても死ねないのでございます。それならば、開き直りました。
生き恥を晒して、生きていく他ないと。
私には、もはや人の心はありませぬ。私は乱世が生んだ化け物でございます」
「化け物?」
「父母を殺されながら、何故、仇のもとで生きながらえておられるのです。
あなた様も私と同じ化け物でございます。
ここには化け物しかおらぬ。
天下惣無事など絵空事にございます。
誰が天下を取ろうとも、この乱世が終わることなどありませぬ」
このドラマにおける村重の人物像
信長を崇拝し畏怖するあまり謀反を起こした村重。
敗れ去り、信長との勝負は「自分が生きのびること」と独自のルールを作り、生きる拠り所にした。
しかし、そのため、妻や一族、家臣ら多くの命を犠牲にしてしまった。
その罪の重さに慄くが、生き恥を晒して生き続けることで償おうとした。
「殺してはなりませぬ!生き恥を晒し生き続けることこそ、この男が受けねばならぬ報い」
と茶々に糾弾されたが、すでに道薫はその境地にあるように思える。
≪死にたいのに死ぬことができない≫というのは、少し違うように思う。
右近に言わせると“乾ききった心”の道薫に潤いを取り戻したのは、又兵衛の村重を描いた絵であった。
官兵衛と秀吉の隙間拡大
家康攻略を唱える三成に対し、「戦わずして家康を軍門に下らせる」という官兵衛の戦略を支持する
しかし、
「政(まつりごと)に関してはお主(三成)ほどの男はおらぬ。しかし、いざ戦においては官兵衛の右に出る者はおらぬ。
あいつは、常に先を見る。このわしの考えを聞かずとも、常に先を言い当てる。
その様は、気味が悪いくらいじゃ」
「それゆえ油断ならぬお方でございます」(三成)
さらに、「領地は要らぬ」「秀吉の為」「天下泰平が望み」という官兵衛に対し、
「無欲な男ほど、怖い者はないのぉ…」
と秀吉は疑念、畏怖を感じる…。
茶々に執心の秀吉
ただ一人、自分を疎み、遠ざかる茶々。ままならぬ存在が却って執着心を増す。
“秀吉はお市の方に惚れていて、その忘れ形見の茶々をモノにしたいと考える”という通説の方が説得力があるように思える。
理解難解な官兵衛の心
・官兵衛は何を持って村重を許したのか?その直接の因や瞬間が分からなかった?(今回では既に許していた?)
・右近との会話で、官兵衛の心境が語られていたが、洗礼を受けるほどの信仰心を持ち始めたようには感じられなかった。
≪村重を許したいが許し切れない≫と苦しむのなら、理解できるが……
・そもそも、幽閉の際、だしに世話になり、恩を感じていた。幽閉の際、聞こえてきた『インバラディズム』という神ゼウスをたたえる歌に安らぎを感じたようではあるが、どちらかというと、だしに対する思慕が強かったように感じた
(『インバラディズム』をだしが唄う回想シーンがあったが、聖歌を歌うというより、妖術を唱えているように見えた)
てっきり不穏な者と思ってしまった正名僕蔵(谷崎新吉)
主人公は官兵衛なので、エピソードが官兵衛中心になることに異は唱えない。しかし、信長・秀吉周辺に官兵衛とあまり関係のないと思われるシーンが多いと感じられる。脚本家や制作サイドの好み(事情)なのかもしれない。
今話は
道薫(村重)が主役。しかも、村重を材料に、秀吉、茶々(淀)、官兵衛、右近に生き方を問いかけていて、なかなかの作りであった。
村重(道薫)の人生観
「あれ以来、それがしの時は止まったまま」という道薫。≪生きたい≫という人間の欲によって、死ぬこともできず“生きた屍”という状態。我が子・又兵衛と対面しても、心の揺れを見せながらも「それがしに子なぞおらぬ」と言い、場を去っていく。
茶々が唯一関心を示した道薫に茶々に人生を語らせる
「妻や家臣を捨て、何故この世に生きながらえているのか?」
という茶々の問いに
「死にたくても死ねないのでございます。それならば、開き直りました。
生き恥を晒して、生きていく他ないと。
私には、もはや人の心はありませぬ。私は乱世が生んだ化け物でございます」
「化け物?」
「父母を殺されながら、何故、仇のもとで生きながらえておられるのです。
あなた様も私と同じ化け物でございます。
ここには化け物しかおらぬ。
天下惣無事など絵空事にございます。
誰が天下を取ろうとも、この乱世が終わることなどありませぬ」
このドラマにおける村重の人物像
信長を崇拝し畏怖するあまり謀反を起こした村重。
敗れ去り、信長との勝負は「自分が生きのびること」と独自のルールを作り、生きる拠り所にした。
しかし、そのため、妻や一族、家臣ら多くの命を犠牲にしてしまった。
その罪の重さに慄くが、生き恥を晒して生き続けることで償おうとした。
「殺してはなりませぬ!生き恥を晒し生き続けることこそ、この男が受けねばならぬ報い」
と茶々に糾弾されたが、すでに道薫はその境地にあるように思える。
≪死にたいのに死ぬことができない≫というのは、少し違うように思う。
右近に言わせると“乾ききった心”の道薫に潤いを取り戻したのは、又兵衛の村重を描いた絵であった。
官兵衛と秀吉の隙間拡大
家康攻略を唱える三成に対し、「戦わずして家康を軍門に下らせる」という官兵衛の戦略を支持する
しかし、
「政(まつりごと)に関してはお主(三成)ほどの男はおらぬ。しかし、いざ戦においては官兵衛の右に出る者はおらぬ。
あいつは、常に先を見る。このわしの考えを聞かずとも、常に先を言い当てる。
その様は、気味が悪いくらいじゃ」
「それゆえ油断ならぬお方でございます」(三成)
さらに、「領地は要らぬ」「秀吉の為」「天下泰平が望み」という官兵衛に対し、
「無欲な男ほど、怖い者はないのぉ…」
と秀吉は疑念、畏怖を感じる…。
茶々に執心の秀吉
ただ一人、自分を疎み、遠ざかる茶々。ままならぬ存在が却って執着心を増す。
“秀吉はお市の方に惚れていて、その忘れ形見の茶々をモノにしたいと考える”という通説の方が説得力があるように思える。
理解難解な官兵衛の心
・官兵衛は何を持って村重を許したのか?その直接の因や瞬間が分からなかった?(今回では既に許していた?)
・右近との会話で、官兵衛の心境が語られていたが、洗礼を受けるほどの信仰心を持ち始めたようには感じられなかった。
≪村重を許したいが許し切れない≫と苦しむのなら、理解できるが……
・そもそも、幽閉の際、だしに世話になり、恩を感じていた。幽閉の際、聞こえてきた『インバラディズム』という神ゼウスをたたえる歌に安らぎを感じたようではあるが、どちらかというと、だしに対する思慕が強かったように感じた
(『インバラディズム』をだしが唄う回想シーンがあったが、聖歌を歌うというより、妖術を唱えているように見えた)
てっきり不穏な者と思ってしまった正名僕蔵(谷崎新吉)