いくよしも あらじわがみを なぞもかく あまのかるもに おもひみだるる
いく世しも あらじわが身を なぞもかく 海人の刈る藻に 思ひ乱るる
よみ人知らず
そう長くは生きられないであろうわが身なのに、どうして漁師が刈る藻のごとく思いが乱れるのであろうか。
余命を自覚したことに伴う心の乱れを詠んだ歌ですが、「乱れ」の比喩として「漁師が刈る藻」というのは少し珍しいでしょうか。刈った藻が海辺に散乱している状態を想定しているのでしょう。
いくよしも あらじわがみを なぞもかく あまのかるもに おもひみだるる
いく世しも あらじわが身を なぞもかく 海人の刈る藻に 思ひ乱るる
よみ人知らず
そう長くは生きられないであろうわが身なのに、どうして漁師が刈る藻のごとく思いが乱れるのであろうか。
余命を自覚したことに伴う心の乱れを詠んだ歌ですが、「乱れ」の比喩として「漁師が刈る藻」というのは少し珍しいでしょうか。刈った藻が海辺に散乱している状態を想定しているのでしょう。
よのなかは なにかつねなる あすかがは きのふのふちぞ けふはせになる
世の中は 何か常なる 飛鳥川 昨日の淵ぞ 今日は瀬になる
よみ人知らず
世のなかに、何か変わらないものがあろうか。飛鳥川は昨日淵だった場所が今日は瀬になるのだ。
飛鳥川はしばしば流れを変えることから無常の象徴とされていますが、それはこの歌から始まったことのようです。
今日から巻第十八「雑歌下」に入りました。1000 まで、68首のご紹介です。
かりてほす やまだのいねの こきたれて なきこそわたれ あきのうければ
かりてほす 山田の稲の こきたれて なきこそわたれ 秋のうければ
坂上是則
刈り取って干す山田の稲が扱きこぼれるように、涙をこぼしながら泣き続けているよ。雁が鳴きながら空を渡るように。秋がつらいので。
詞書には「屏風の絵によみあはせて、書きける」とあります。冒頭の「かり」は「刈り」と「雁」、第四句「なき」は「鳴き」と「泣き」の掛詞になっています。また、第三句「こきたれて」が稲がこぼれるさまと涙がこぼれるさまの両義、第四句「わたれ」が雁が鳴いてわたるさまと作者が泣き続けるさまの両義となっていて、巧みに二重の意味が詠み込まれていますね。
0863 から始まった巻第十七「雑歌上」はここまで。明日からは巻第十八「雑歌下」のご紹介です。
さきそめし ときよりのちは うちはへて よははるなれや いろのつねなる
咲きそめし 時よりのちは うちはへて 世は春なれや 色の常なる
紀貫之
咲き始めたときから後はずっと世の中は春であるのか、花の色はずっと変わらない。
詞書には「屏風の絵なる花をよめる」とあります。「うちはへ」は漢字で書けば「打ち延へ」で、ずっと長くの意。貫之は多くの屏風歌を残した歌人で、貫之集全九巻中四巻が屏風歌となっているほどですが、屏風の絵を題材としていても、この歌のように純粋に絵を絵として詠んでいて、絵を媒介として世界を出現させる視点のないものは屏風歌として扱われないようです。実際、貫之集においてもこの歌は雑歌の巻に配置されていますね。
おもひせく こころのうちの たきなれや おつとはみれど おとのきこえぬ
思ひせく 心のうちの 滝なれや 落つとは見れど 音の聞こえぬ
三条町
ここに描かれているのは、思いを堰き止めている心の中の滝なのでしょうか。落ちていると見えていますが、音は聞こえないのです。
少し長い詞書には「田村の御時に、女房のさぶらひにて、御屏風の絵御覧じけるに、滝落ちたりける所おもしろし、これを題にて歌よめと、さぶらふ人におひせられければよめる」とあります。「田村の御時」とは、第55代文徳天皇の御代の意。作者の三条町(さんじょう の まち)は、文徳天皇の更衣だった紀静子(き の しずこ)のことで、邸宅が三条にあったことからこう呼ばれたようです。古今首への入集はこの一首のみですね。屏風絵の滝は、水が落ちているのはわかるけれども音は聞こえない、そのことに準えて、天皇に対して口には出さないけれども深い恋心を抱いていることを表現しています。