漢検一級 かけだしリピーターの四方山話

漢検のリピート受検はお休みしていますが、日本語を愛し、奥深い言葉の世界をさまよっています。

古今和歌集 0929

2022-05-16 07:12:22 | 古今和歌集

かぜふけど ところもさらぬ しらくもは よをへておつる みずにぞありける

風吹けど 所も去らぬ 白雲は 世を経て落つる 水にぞありける

 

凡河内躬恒

 

 風が吹いてもその場所から離れない白雲は、長い間ずっと落ち続けている水なのであった。

 詞書に「同じ滝をよめる」とあり、0928 と同じく比叡山の音羽の滝を詠んだ歌です。0928 では滝が白髪に喩えられていましたが、こちらは白雲。どちらも珍しい見立てで、手元の解説本には「同じ時の歌と見れば、互いにめずしい詠みぶりを競ったか」との推測が記されています。作者自身が競ったかは別としても、古今集の撰者が珍しい見立ての歌ということで並べて配置したことは間違いないでしょう。個々の歌そのものはもちろんですが、複数の歌の配列の意図をうかがい知ることができ、また、鑑賞しながらそうした点に思いをめぐらすことができるのも、古今集鑑賞の楽しみの一つですね。

 


古今和歌集 0928

2022-05-15 07:05:18 | 古今和歌集

おちたぎつ たきのみなかみ としつもり おいにけらしな くろきすじなし

落ちたぎつ 滝の水上 年つもり 老いにけらしな 黒き筋なし

 

壬生忠岑

 

 激しく落ちて流れる滝の上流は、歳をとって老いたようだ。黒い筋がまったくない。

 詞書には「比叡の山なる音羽の滝を見てよめる」とあります。「みなかみ」の「かみ」に「髪」をかけて、歳をとって黒い筋がない(=白髪ばかり)と、古くからある滝が経てきた年月に思いをはせての詠歌ですね。


古今和歌集 0927

2022-05-14 05:36:12 | 古今和歌集

ぬしなくて さらせるぬのを たなばたに わがこころとや けふはかさまし

主なくて さらせる布を たなばたに わが心とや 今日はかさまし

 

橘長盛

 

 持ち主がなくて晒してある布を、私の心として今日は織姫にお供えしましょうか。

 詞書には「朱雀院の帝、布引の滝御覧ぜむとて、文月の七日の日おはしましてありける時に、さぶらふ人々の歌よませたまひけるによめる」とあります。「朱雀院の帝」は第59代天皇であった宇多上皇のこと。第三句の「たなばた」は、ここでは織姫を指します。
 作者の橘長盛(たちばな の ながもり)は平安時代前期の貴族にして歌人。古今集への入集はこの一首のみです。


古今和歌集 0926

2022-05-13 05:18:37 | 古今和歌集

たちぬはぬ きぬきしひとも なきものを なにやまひめの ぬのさらすらむ

裁ち縫はぬ 衣着し人も なきものを なに山姫の 布さらすらむ

 

伊勢

 

 裁ったり縫ったりしない衣を着た人も今はいないのに、どうして山姫は布をさらしているのだろう。

 詞書には「竜門にまうでて、滝のもとにてよめる」とあります。歌の解釈は上記の通りですが、その意味するところはわかりづらいですね。詞書の「竜門」は奈良県にあった竜門寺というお寺のこと。その近くに滝があったのでしょう。「裁ち縫はぬ衣」はいわゆる天衣無縫のことで、天人や仙人が着る衣は裁断したり縫ったりしないことを指しています。「山姫」は山の女神。竜門寺には仙人が住んでいたという伝承があり、そのことを踏まえて、「無縫の衣を着る仙人はもう今はいないのに、どうして山の女神は布(=滝)をさらしているのか」と詠んだわけですが、この時の伊勢は恋に破れて里に戻る旅の途上にあり、やりがいのないこと、する必要のないことに対する虚無感が詠ませたのかもしれませんね。


古今和歌集 0925

2022-05-12 05:27:51 | 古今和歌集

きよたきの せぜのしらいと くりためて やまわけごろも おりてきましを

清滝の 瀬々の白糸 くりためて 山わけ衣 織りて着ましを

 

神退法師

 

 清滝の瀬の白糸のような流れを繰って貯めて、それを山に入る時の衣に織って着られたら良いものを。

 「白糸」は早瀬の流れの見立て。「山わけ衣」は山道を踏み分けて行くときに着る衣服のことで、法師が修行のため山に入るにあたっての詠歌ですね。
 作者の神退法師(しんたいほふし)は詳細不明の人物。古今集への入集はこの一首のみです。