星に願いを

5年間続けた海外生活から帰ってきて、5年がたちました。趣味の自転車(アウトドア)、読書(インドア)を綴っていきます。

続き

2006年01月18日 09時15分31秒 | 思うこと

午後には、水道の出が悪くなってきた。
母親が”お水を出来る限り貯めておかないと。”と、言って、お風呂にお水を貯めだした。そして、ありったけのゴミバケツを用意して、その中にゴミ袋を何重にも覆って、その中にお水を入れていた。ちょうど、水で満たされた時点で水道が出なくなった。

小学校時代からの友人で、同じく大阪で下宿している友人の実家に行ってみると、お父さんがいて、”息子と全然連絡が取れない。”といって嘆いていた。僕は、”大阪は大丈夫だから、心配しないで。”と言って、帰ってきたら、連絡を下さいとだけ伝えておいた。
その日の夜中から、何本か電話が入りだした。僕の母親の実家からだった。また、その友人からも電話が掛かってきた。
友人は、大きい地震だったなぁと思って、そのまま、自分の大学に通学したらしい。そのまま講義を受講して、バイトに言ったときに、バイト先の店主から、”神戸が大変なことになっている。”と、聞かされて、慌てて帰省したのだそうだ。

夜中には、我が家では電気が繋がった。
テレビの映像が始まり、冷蔵庫が動き出した。

神戸の被害を伝えていたけれど、テレビでは、数百人の死者が出た模様。と、伝えていた。
僕は、テレビに向かって、”こんなものじゃない!きっと、数万人単位で死者が出ているはず!政府は何をのんきな発言をしているの?自衛隊を早急に出して、対応しないと!”と、叫んでいた。

確かに、後で、政府の初動の遅れは指摘されていた。当時の神戸の被害は、きっと現場にいた人しかわからないと思う。20年以上過ごした僕でさえ、地震当時は、堺に住んでいて、正確には、当事者ではないけれど。

故郷を失う気持ちって、こんなにも淋しいものなのかと、痛感していた。

次の日の朝、もう一人の友人の家に行ってみた。
その友人のアパートは完全に倒壊していた。玄関の前に止めてあった友人のバイクの上にアパートのがれきが覆い被さっていて、見る影もなかった。
そこにあるべき、2階建てのアパートは跡形もなく、上を見上げると青空だけが広がっていた。
周りには、がれきの中から少しずつ自分たちの家財を出そうとする人たちがいた。その中に友人の姿はなかった。