は、曽我町子様の命日なんですね。
4年前、私が、この信じられない訃報に接したのは、旅先であった鹿児島の地。
毎年この日を迎えると、あの時の光景が頭を過ります。
改めて振り返ると、旅行最終日であった5月8日の朝。
鹿児島市内のホテルに、10分100円のインターネットコーナーがあったので、朝食前に、友人のサイトにでも遊びに行こうかという軽い気持ちで画面に向かったところ、その友人のサイト(「電子戦隊デンジマン」のファンサイト)で、信じられないニュースを目にしたのだった。
それから、当時住んでいた帯広へ帰着するまで、実に色々なことがあった。
まず、旅行の到着地であった熊本へ戻るべく、鹿児島中央駅のホームで新幹線を待っていたところ、札幌の友人から、この件に関するメールが届いた。
確かそのメールでは、「もし知らなかったらと思って・・・」という趣旨のことが書いてあったと思うのだけど、私の返信の仕方が悪くて、友人に、せっかくの旅に水を差してしまったと思わせてしまったことは、今でも申し訳ないと思っている。
そして熊本に到着。
とにかく詳しいことが知りたいと思った私は、熊本空港でも、100円インターネットのコーナーを見つけ、限られた時間の中で、新聞で記事になっているかどうかを調べたのだが、残念ながらそこでは記事を発見することが出来なかった。
そこで次なる手段として採ったのが、羽田へ向かう機内で、機内サービスで置いてある新聞を全て読み漁ること。
一般紙とスポーツ紙、全部で5~6紙が置いてある中、確か3~4紙くらいで、小さいながらも記事になっていたと思うのだけど、そんな中、普段は余り読むことのないA新聞だけが、写真付きで記事にしていたのを見つけたので、これでもう次なる行動は決まり。そう、羽田に着いたら、売店でA新聞を探してゲットすることだった。
なんだけど、物事そうは簡単に運ばないのが世の常。
私が羽田に着いたのは、午後4時頃。そう、朝刊どころか、既に夕刊の配達が始まっている時刻で、コンビニや売店に並ぶ新聞も、夕刊が主体になり始める時刻。
当然ながら、空港内の売店でも、朝刊という朝刊はほとんど売り切れていて、私は、どうしても見つけられなければ、帯広へ向かう機内で、客室乗務員さんにお願いして、A新聞を頂いてしまおうなんてことも考えていた。
しかし、しかしである。
ここでようやく、自分で言うのもなんだけど、苦労が報われることになった。
そう、広い空港ロビー内を散々探しまくって、ようやく、A新聞の朝刊が、一部だけ売れ残っていた売店に辿り着くことができたのである。
あの時の達成感と、その売店に対する感謝の気持ちは、多分今後も、自分の中で消えることはないと思う。
勿論、その時の記事は、切り抜いて、今でも大切に保存してあります。
そして羽田を離れ、夜7時頃帯広に到着。
鹿児島と熊本、それに帯広の天候は晴れだったのだけど、羽田を含む東京周辺だけは雨。
あれはきっと、涙雨だったのだろうと、今でも思っている。
あの時の、雨に煙る空港構内の光景は、今でもはっきりと瞼に焼き付いている。
他にも何やかやとあった気がするんだけど、とりあえず、今思い出せるのはこれぐらい。
だけど、多分一生忘れないと思うし、忘れてはいけないと思う。
2004年7月10日、曽我様が不肖私めに授けてくださった、「ナナマガラー」というハンドルネームと、これが縁で広がっていった仲間達との繋がりは、これからもずっと大切にしていきます。
4年前、私が、この信じられない訃報に接したのは、旅先であった鹿児島の地。
毎年この日を迎えると、あの時の光景が頭を過ります。
改めて振り返ると、旅行最終日であった5月8日の朝。
鹿児島市内のホテルに、10分100円のインターネットコーナーがあったので、朝食前に、友人のサイトにでも遊びに行こうかという軽い気持ちで画面に向かったところ、その友人のサイト(「電子戦隊デンジマン」のファンサイト)で、信じられないニュースを目にしたのだった。
それから、当時住んでいた帯広へ帰着するまで、実に色々なことがあった。
まず、旅行の到着地であった熊本へ戻るべく、鹿児島中央駅のホームで新幹線を待っていたところ、札幌の友人から、この件に関するメールが届いた。
確かそのメールでは、「もし知らなかったらと思って・・・」という趣旨のことが書いてあったと思うのだけど、私の返信の仕方が悪くて、友人に、せっかくの旅に水を差してしまったと思わせてしまったことは、今でも申し訳ないと思っている。
そして熊本に到着。
とにかく詳しいことが知りたいと思った私は、熊本空港でも、100円インターネットのコーナーを見つけ、限られた時間の中で、新聞で記事になっているかどうかを調べたのだが、残念ながらそこでは記事を発見することが出来なかった。
そこで次なる手段として採ったのが、羽田へ向かう機内で、機内サービスで置いてある新聞を全て読み漁ること。
一般紙とスポーツ紙、全部で5~6紙が置いてある中、確か3~4紙くらいで、小さいながらも記事になっていたと思うのだけど、そんな中、普段は余り読むことのないA新聞だけが、写真付きで記事にしていたのを見つけたので、これでもう次なる行動は決まり。そう、羽田に着いたら、売店でA新聞を探してゲットすることだった。
なんだけど、物事そうは簡単に運ばないのが世の常。
私が羽田に着いたのは、午後4時頃。そう、朝刊どころか、既に夕刊の配達が始まっている時刻で、コンビニや売店に並ぶ新聞も、夕刊が主体になり始める時刻。
当然ながら、空港内の売店でも、朝刊という朝刊はほとんど売り切れていて、私は、どうしても見つけられなければ、帯広へ向かう機内で、客室乗務員さんにお願いして、A新聞を頂いてしまおうなんてことも考えていた。
しかし、しかしである。
ここでようやく、自分で言うのもなんだけど、苦労が報われることになった。
そう、広い空港ロビー内を散々探しまくって、ようやく、A新聞の朝刊が、一部だけ売れ残っていた売店に辿り着くことができたのである。
あの時の達成感と、その売店に対する感謝の気持ちは、多分今後も、自分の中で消えることはないと思う。
勿論、その時の記事は、切り抜いて、今でも大切に保存してあります。
そして羽田を離れ、夜7時頃帯広に到着。
鹿児島と熊本、それに帯広の天候は晴れだったのだけど、羽田を含む東京周辺だけは雨。
あれはきっと、涙雨だったのだろうと、今でも思っている。
あの時の、雨に煙る空港構内の光景は、今でもはっきりと瞼に焼き付いている。
他にも何やかやとあった気がするんだけど、とりあえず、今思い出せるのはこれぐらい。
だけど、多分一生忘れないと思うし、忘れてはいけないと思う。
2004年7月10日、曽我様が不肖私めに授けてくださった、「ナナマガラー」というハンドルネームと、これが縁で広がっていった仲間達との繋がりは、これからもずっと大切にしていきます。