FORTY THREE-SEVEN

43カーモデルとその他の事柄
その他の方がたぶん多い

Ayrton Senna da Silva

2011-01-16 06:00:59 | 43
見てきました いまさらと思う方もいらっしゃいますでしょうが
長野は1/15が公開初日です

チラシ


看板
その功績に敬意を払うことを別とすれば
私は彼のことが好きではありません。
現役時代から彼を応援したのは1993年だけです。
この映画はさまざまな映像をモザイクのように組み合わせて
セナという人間の実像に迫っています。
そこはそれセナの映画ですからきれいごとに書かれている部分も多くあるのですが
アンチセナの私から見ても鼻につくほどではありません
さてこの映画を見てわかったのは私が絶えずセナに対して感じていた違和感の原因です。
一部で言われているように自分に神の加護があり不死身と信じていたとか
逆に死を求めていたというのではないことは分かっています。
ロータスに移ったあたりのインタビューで、
緊張がたまらないというような意味のことを言っています。
レースは緊張するしプレッシャーもかかるけど
その緊張感の中に自分を確認している、そういうことのようです。
これを見たとき思い出したのが冷戦華やかなりしときに
世界各地の紛争地域で活躍したWhite Mercenary(白人傭兵)と呼ばれる人たちです。
彼らは第三世界で白人の権利を守るために戦争をしました。
彼らの存在というのはイデオロギー的に反共ということはもちろんあるのですが
それよりも彼らを動機付けているのは
戦争そのものであるということ、その命の危険の中でしか
自分が生きているということを実感できないということのようです。
分かりやすく言うとエリア88のベトナムから帰ったミッキーが近い存在です。
危険なレースや激しい競り合いの中でしか自分の生を確認することができなかったのだと思います。
死を求めているわけではなく 死は普通の人間と同じように恐ろしい、
だけどそれとぎりぎりの状態でしか生きていることを実感できない。
そういう人間がいるのだそうです。ある精神分析医は、
冬山に登るのは困難を克服するという征服欲もあるが、
死と直面してこそ生きている実感を得られるからだとも言っています。
冬山に臨む人はそこでしか生きている実感を確認できなくなっているわけではないですけどね。
そんなにおいが感じ取れたのでしょう。
しかしながらイモラの画像で彼の死を悼むフジTVの3人の画像がなければ
ワタシはこれにもっと感動したことでしょう。


映画館の廊下 ちょっとトロンぽくない?

後で読み返して 恥ずかしくなる確率87%
(映画見て勢いだけで書いています)

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