玄米ごはん族のあしたのたのしみへ

玄米と野菜、果物で今日から明日へ。農業と穀物菜食の日々

方向はどっち向きか

2019-05-17 05:22:01 | 健康
 なんとかもとにもだったらしい。二日ばかり雨だったがまた畑仕事を父ははじめた。今年のように晴の日が続いている5月はめずらしい。

 大きな毛虫が葉の裏側にいたり時々首すじをはいまわっていたりとこれからたいへんな季節を迎えるそうだ。それでも虫に刺されたことはないのが栄養失調と呼ばれている人間だが父は頻繁に虫に刺されている。 それがいやで殺虫剤をまくのだろうが自分にもかかるようにまくのはどういう神経なのだろう。農薬を噴霧した方向へ進んでいくのだから頭は正常かとうたがうレベルだ。
 単純に考えると自分も消毒しているのかもしれない。吸い込んでも二三日で回復しているようだ。だが、だんだん衰弱しているのは動作を見ればわかる。体の可動範囲がせばまって動作がおそくなっている。何かあると事故になりやすくなる。一度寝込んだら回復不可能だろう。やはり関節を痛めている。薬剤で痛めているのかもしれない。
 頭の上を蜂がブンブン飛んでいるのに気がつかない人間と比べることはできないが、なぜ刺されるのだろう。植物性のみで生きている人間と比べると必ず父は植物性だけでは、そんなものだけでは動けなくなると動物性の摂取に余念がない。何か今こっているものがあってどうしても毎日食べたいものがあるらしい。
 動けなくなるといって動物性をせっせと食べて刺されるなら動かないほうが良いと思えるが動くのが重要らしい。目の前に植物性だけで動いている人間がいるのにどこに目がついているのだろう。歳をとって体を使うとはどのようなはげしい作業になるのだろう。そんなものはないはずだ。

 昼食が醤油煎餅とドイツから輸入されたノンアルコールビールで動いている人間がいるのに、なぜ植物性を信用しないのだろう。自分で作っているものが農薬と化学肥料のかたまりでは何の栄養もないということがわかっているのかもしれない。
 ものすごい労働時間を費やして仕上げは農薬散布。なんてむなしいことをやっているのだろう、としか思えない。動物性の食事はそれで良いのかもしれない。植物性だけで生きている人間がそういうものを食べるとただちに動くことができなくなるだろう。


 動けなくなるのを心配しなければならないのは植物性の人間のほうだ。


 何も気にすることのない生き方と、何かあるとたいへんだからと予防策を実行する致死的な生き方では、コストの面で圧倒的な差があり、精神的な安定感では比べるものが馬鹿らしいほどの差がある、ように思える。

 十代で農薬を嫌いになった人間の方向性は低コスト、安心安全を求めていたことになる。父と比べるとその方向は正しかった。

コメント
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