どうにも気になってしまう。母の祥月命日でもあり、墓参りに出かけた。息子の家族と一緒に行くと、何ときらん草がある。藪には、枇杷葉の花が咲いていた。ああ・これを教えたくて、夢にみせてくれたのだ。ご先祖の墓をきれいにし、水と華を供えた。
もう一つの怪は、実家に近づくにつれ、降っていた雨が止み、薄日が差してきた。母のうれしそうな顔が浮かんでくる。まるで手招きされるように歩く。其処にきらん草がある。何だか、ご先祖が、よう参ってくれた。と云っているようだった。安堵する。
年末には、息子と掃除に来るから、と告げ実家を後にした。帰宅して、昼ご飯を戴き、勤務に向う。ありゃ・・・雨だ。時雨始めたのが雨脚を強めてくる。土砂降りになった。不思議なことがあるものと母を偲んだ。つかの間の墓参りを天気にしてくれた。
そう言えば、母が亡くなってから、父の居場所を探していた時、嫁は陽が差す方に導かれた。と話していた。その時には、母の無念を想ったが、今回はご先祖が、枇杷葉のことを知らせ、我が家の枇杷葉と共鳴したものだろう。実に奇怪な日である。
この世には、人間の知性の理解を超えることもあるのだ。神の存在を想う時、幾ら抗っても、避けて通れないものがある。人智の及ばない、説明できない不可思議なことが起きるのだ。掃除を丹念にし、特にトイレを磨こう。使命なのかもしれない。
便利さや豊かさの溢れる時代に、逆行することかもしれない。けれども、物にも命があり、形を変えて存在することが、ある意味もたらしてくれる運気なのかも。瑞雲は誰しもに見えないというから、自分の信念を曲げず、生きていかねばならない。
我が家の枇杷葉が神気めいているのも、結界が張られることも、満更虚言ではない。五感の他にある第六感が働くのも、佳いとも悪いとも云えない。自分の許容能力を超えていても、そういったこともあると想えるからだ。枇杷葉の力を感じている。
以前にも書いたが、だからこそ禍をもたらそうとすると、本人に還っていく。ちょっとしたことで数日後に出たり、直ぐに現われる。これもまた、こちらが望んでいることではない。ありのままにして、自然に接してくれればいいだけだ。特別ではない。
ここ数年探していた栴檀。なんという事だろう、直ぐ近くにあった。道を挟んで向かいの山に、その薄紫の巨木はあったのだ。