枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

土用・暑中お見舞いの頃

2014年07月20日 | Weblog

 暑い一日であった。夕立があり、水溜りができた。あわや洗濯物が濡れるところであった。目まぐるしい日でもあり疲れた。スーパーの冷房はどうにかならぬか。冷凍庫に閉じ込められているようだ。寒いというものではなく、冬眠できる。夏への扉だ。

 蝉が、早朝の静けさを大合唱し、否応なく起きる。休みではなく仕事であるが、昨夜は、奇貨居くべしを読破し、三国志を読み始めたら、睡魔に襲われた。その時になって気づく。ひょっとして火曜日は休館日かも。次の編まで借りるべきであった。

 県立図書館からのもあるので、少しピッチを上げよう。萩尾望都さんの作品も、読みたくなった気分。持ってます。殆んどの作品を。キャベツ畑の遺産相続人が、断トツ好き。スターレッド、半身もいい。光瀬龍原作の、百億の昼と千億の夜と。阿修羅。

 庭の西瓜が腐った後に、なぜか干瓢の花が咲き出した。西瓜の接ぎ芽だから、当然ではあるが。干瓢が生ったら、炒めて食べる。来年は、西瓜の種から発芽させるか。どうも貧相な苗であることか。メロンの軸が枯れだした。そろそろ収穫できるか。

 原発の再稼動を、首相は約束したそうだが、責任や核のゴミの処理は、どうするのだろう。福島の除染さえ、解決の目処が立たないのにと疑念が消えない。そんな重要なことを、簡単に勝手に決めていいのか?国民の声に耳を澄ましてほしいなぁ。

 日本が、地震国であることは、知っているであろう。各地に散らばる原発の設置場所は、誰がどう見ても危険が伴う。また、孤立もしよう。そういった場所に造っていること自体が可笑しい。何等責任を問わず、疑題もなければ、都会に設置できよう。

 世界中の平和が、今直ぐに訪れるためには、原発は設置してはならない。それを知っている人間として、外国に輸出する魂胆に加担できない。放射線塗れになって尚、原発を稼動させたいのだろうか。人としての温かみに欠ける行為は恥である。

 南側で、すくすく育つ枇杷葉。既に数年経過するが、このくらいで上に伸びるのを止めないと、背が届かない。

コメント
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