政治的な選択というものは必ずしもいちばんよいもの、いわゆるベストの選択ではありません。それはせいぜいベターなものの選択であり、あるいは福沢諭吉のいっている言葉ですが、「悪さ加減の選択」なのです。
(中略)
すなわち、第一に、政治はベストの選択である、という考え方は、ともすると政治というものはお上でやってくれるものである、という権威主義から出てくる政府への過度の期待、よい政策を実現してくれることに対する過度の期待と結びつきやすい。
(中略)
したがって、こういう政治というものをベストの選択として考える考え方は、容易に政治に対する手ひどい幻滅、あるいは失望に転化します。つまり、政治的な権威に対する盲目的な信仰と政治にたいする冷笑とは実はうらはらの形で同居している。
(中略)
政治というものは、われわれがわれわれの手で一歩一歩実現していくものだというプロセスを中心にして思考していったものでなければ、容易に過度の期待が裏切られて、絶望と幻滅が次にやってくる。万事お上がやってくれるという考え方と、なあにだれがやったって政治は同じものだ、どうせインチキなんだ、という考え方は、実は同じことのうらはらなんです。
これは、最近書かれた文章ではない。
戦後日本を代表する政治学者であり、知識人であった丸山真男が1958年に行った講演の一節である。
この講演を収録した「丸山眞男セレクション」(平凡社ライブラリー)は、この数年に読んだ本のなかでもベストといいたいくらいのおもしろさだった。
凡百の日本文化論が束になってもかなわないほどの、鋭い指摘に満ちている。
数十年ないし半世紀以上も前の文章である。東西冷戦が終わり、保守政党の長期政権も終わりを告げるなど、状況は相当変わってきているはずである。にもかかわらず、まるでつい先日のものかと思われるほどなのだ。
それほど、日本人の精神の基底は変化していないのかもしれない。
以下、この本から引用。
我が国では私的なものが端的に私的なものとして承認されたことが未だ嘗てないのである。 (超国家主義の論理と心理)
独裁観念にかわって抑圧の委譲による精神的均衡の保持とでもいうべき現象が発生する。上からの圧迫感を下への恣意の発揮によって順次に委譲して行く事によって全体のバランスが維持されている体系である。 (同)
これなどは、学校のいじめ問題を考えると、空恐ろしいまでに当たっている指摘だと思うのだが。
次の一節は、現今の米軍基地問題を思うと、これまた指摘の鋭さ、新しさに驚かざるを得ない。
第一には、現実の所与性ということです。
現実とは本来一面において与えられたものであると同時に、他面で日々造られて行くものなのですが、普通「現実」というときはもっぱら前の契機だけが前面に出て現実のプラスティックな面は無視されます。いいかえれば現実とはこの国では端的に既成事実と等置されます。(中略)「現実だから仕方がない」というふうに、現実はいつも、「仕方のない」過去なのです。 (「『現実』主義の陥穽」)
丸山は辛辣に付け加える。
昔から長いものに巻かれて来た私達の国のような場合には、とくに支配層的現実即ち現実一般と看做され易い素地が多いといえましょう。
とりあえずこのへんでやめておくけど、所収されている論文「日本の思想」でも、その雑種文化の指摘(これは加藤周一と共通するものがあるのだけれど)は、オウム真理教の教義を思い出さずにはおれない。
すべてのものが、元の連関と無関係に並べられるのは、われわれの文化の特徴なのだろうか。
子どもを政治の現場に連れ出し民主主義の意味を見せることです。
政治に参加させ、政治を日常の価値あるものとして教育するということにつきると思います。
利便や自由というものは与えられるものではなく自ら作り出さないと自分の主張や拠り所というものをいつまでも現実獲得できないと言うことを言っています。
抑圧の移譲と精神均衡の保持ということもマスコミ人は肝に銘じていなければ、世の中を理想とする方向に導く契機を読者に与えられないものだといえます。
丸山真男は、日本の新聞の「政治部」は「政局部」だと、痛烈に皮肉っています。
近年は少しずつ変わってきましたが、あまり変わってないような気もします。
まあ、政治は頼りにならないので、みんなが勝手にそれぞれの持ち場で頑張ればいいのだと思っています。