(※2017年12月、少し追記しました)
大友亀太郎=天保5年(1834)-明治30年(1897)=は、開拓使よりも一足早く札幌に入植し、現在の創成川の前身である「大友堀」を掘削するなど、札幌開拓の祖のひとりとなった人です。
現在の東区の生みの親といえるでしょう。
(元町、丘珠など、現在の東区の大部分は、1955年に札幌市と合併するまで、札幌村という別の自治体でした)
この大友亀太郎の像は、農民彫刻家として知られる松田与一さん(上川管内東川町)の手になるもの。
もともと、創成川沿いに設置されていました。中央バスターミナルの近くです。
創成川通の大規模工事に伴い、2005年に、札幌村郷土資料館の前に移設されました。
ただ、創成川通の工事が終わると、もとの場所に戻るみたいです。
□札幌村郷土資料館 http://www.ncf.or.jp/wg/higashiku-nc/kinenkan/sapporomura.html
ところで、わたしは個人的にはあまり信頼を置いていないのですが、Wikipediaというサイトがあり、そこでは大友亀太郎に、「おおどもかめたろう」という読みをつけています。
また、札幌市立元町北小学校のサイトでも、わざわざクイズ形式で「おおども」が正しいと記してあります。
いずれも、その根拠は示していません。
(※後註 2017年12月24日現在、Wiki では「おおとも」になっていました。元町北小のサイトは移転していました)
「北海道大百科事典」や、札幌市教育委員会編のさっぽろ文庫「札幌人名事典」では
「おおとも」
となっています。
「札幌市史」では、わざわざルビをふっていません。
サイト「札幌の文化財」http://www.city.sapporo.jp/shimin/bunkazai/でも「おおとも」になっています。
「大友」は、ふつうは「おおとも」であると思います。
あえて「おおども」と、濁ってよませるからには、根拠を示してほしいです。
世の中には、Wikipediaからコピーして調べ物はそれで終わり-という人が大勢いて、このまま放置しておくと、「おおども」が正しいということになってしまうかもしれませんから。
大友亀太郎=天保5年(1834)-明治30年(1897)=は、開拓使よりも一足早く札幌に入植し、現在の創成川の前身である「大友堀」を掘削するなど、札幌開拓の祖のひとりとなった人です。
現在の東区の生みの親といえるでしょう。
(元町、丘珠など、現在の東区の大部分は、1955年に札幌市と合併するまで、札幌村という別の自治体でした)
この大友亀太郎の像は、農民彫刻家として知られる松田与一さん(上川管内東川町)の手になるもの。
もともと、創成川沿いに設置されていました。中央バスターミナルの近くです。
創成川通の大規模工事に伴い、2005年に、札幌村郷土資料館の前に移設されました。
ただ、創成川通の工事が終わると、もとの場所に戻るみたいです。
□札幌村郷土資料館 http://www.ncf.or.jp/wg/higashiku-nc/kinenkan/sapporomura.html
ところで、わたしは個人的にはあまり信頼を置いていないのですが、Wikipediaというサイトがあり、そこでは大友亀太郎に、「おおどもかめたろう」という読みをつけています。
また、札幌市立元町北小学校のサイトでも、わざわざクイズ形式で「おおども」が正しいと記してあります。
いずれも、その根拠は示していません。
(※後註 2017年12月24日現在、Wiki では「おおとも」になっていました。元町北小のサイトは移転していました)
「北海道大百科事典」や、札幌市教育委員会編のさっぽろ文庫「札幌人名事典」では
「おおとも」
となっています。
「札幌市史」では、わざわざルビをふっていません。
サイト「札幌の文化財」http://www.city.sapporo.jp/shimin/bunkazai/でも「おおとも」になっています。
「大友」は、ふつうは「おおとも」であると思います。
あえて「おおども」と、濁ってよませるからには、根拠を示してほしいです。
世の中には、Wikipediaからコピーして調べ物はそれで終わり-という人が大勢いて、このまま放置しておくと、「おおども」が正しいということになってしまうかもしれませんから。
そこにいらっしゃったご婦人が熱く大友亀太郎さんについて語って下さいました。
・・で、どちらなんでしょう?
分からないのでまずは亀太郎さんとお呼びしましょう。
亀太郎さんは二宮尊徳氏のお弟子さんだったそうで、最近小学校の校庭などに金次郎像を見かけないなと思います。
ミトさん、じつはけっこう博物館系、好きですよね。雪印とか
二宮金次郎の像でしたら、こちらをご覧ください。
http://blog.goo.ne.jp/h-art_2005/s/%C6%F3%B5%DC
すこしまじめな話になりますが、たしかに大友亀太郎は二宮尊徳の弟子です。
当初、幕府だか明治政府だかは、尊徳に北海道開拓を手がけてほしかったようです。しかし、固辞されたため、弟子の亀太郎が最初に道南に入り、続いて札幌へ移ってきたとのこと。
二宮尊徳が幕末期の日本人にあたえた影響は大きいと、わたしは考えています。彼と石田梅岩の思想が、プロテスタンティズムに似た心性を日本人にもたらし、明治以降、資本主義の導入をスムーズにさせたのではないかとすら思います(証拠はないけどさ)。
郷土研究家が突き止め、とのことですが、そういう説を出したというのと、確たる証拠があるというのとでは、全く事情が異なります。
申し訳ありませんが
「30~40年位前の北海道新聞」
に載っていたというだけでは、正直なところ、証拠にはならないと思いますが。いかがでしょうか。