あれっ、と思った。
5月26日、非常事態宣言の全国解除。
読売新聞が毎日載せていた、新型コロナウイルスの感染防止を呼びかけるコロナ標語の掲載がなくなり、NHK総合テレビの「あさイチ」では遠隔出演していた博多華丸・大吉コンビがいつの間にかスタジオに戻っている(近江アナとは距離を保った位置にすわっているが)。
2月から学校の休校が続いていて、4月中旬には非常事態宣言が全国に拡大した。
台湾など早期収束に成功した一部を除く世界各地からも、感染拡大の報道が毎日流れてきて、いつの間にかそれが日常になってきた感覚に染まっていた。
筆者は地方に住んでいるので、宣言がどうなろうと、マチの人通りはあいかわらず少ないし、日々の生活が劇的に変わるわけでもないという要因も手伝っているだろう。テレワークだ時差出勤だといっても、そういう環境にいないので、そもそもの実感がわかないままいまに至っている。
とはいえ、「日常に戻る」というのが、頭ではどんなことか分かっていても、なんだか不意打ちをくらったような感じがある。
あるいは、解離に似た心的な動きである。
美術館再開のブログ記事をまとめていたときは、まだ現実感にとぼしかったのだろうか。
こんどの新型コロナウイルス(COVID-19)危機は、世界が一変するのではないかという見立てを述べていた有識者も少なくなかった。
しかし日本社会は、旧に復そうという性格がかなり強い社会であると、筆者は考えている。
もうひとつ。人は「自分が生きている時代は激動期であり、自分は歴史の証人なのだ」と思いたがるフシがあるのではないか。でも、すべての時代が激動期であるはずがない。
人はこれまでの慣習を簡単には捨てられない。
たぶん、日本の社会はあまり変わらないだろう。
筆者が現実の世界と折り合いがつけられないことも、新型コロナウイルスとは関係なく、従前のことなのかもしれない。
ただ、美術鑑賞・美術館に限っていえば、変化を余儀なくされることはあるだろう。
これはすでに多くの人が書いているので、筆者の独創でもなんでもないが、箇条書きにしてまとめてみる。
イ)伊藤若冲展や印象派展のような、長い列ができる大量動員型の展覧会は開けなくなる
ロ)海外、とくに西洋からの作品借り入れが難しくなる。作品は運べてたとしても、クーリエが入国できない
ハ)人が大勢集まるイベントや、接触の多いワークショップの開催が困難になる
ひとくちに「美術館」といっても、東京の有名館と、あまり人がたくさん訪れない地方の館では、状況が全く異なり、同列に論じることはできないだろう。
こんなことを言うとしかられそうだが、大型展覧会の少なくない部分はマスコミが主催しており、東京ではいざ知らず、北海道では収益のあがる事業ではまったくない。
マスコミの体力もなくなっていることだし、これを機に、主催を減らすこともないとはいえない(ほんとうのところはわからないが)。
「マスコミ主催の展覧会よりも、所蔵品の充実が望ましい」
正論だが、作品購入にこの20年、ロクな予算がついていないのが、道内の多くの美術館の現状ではないか。
アートツーリズムを盛り上げようにも、人の移動自体が歓迎すべきでない行為であるとされつつある。
短期的には、展覧会日程の組み替えに忙しいだろう。
せめて、これを機に、入場者数ばかりを競わせる行政の在り方が変わってくれればいいのだが。
5月26日、非常事態宣言の全国解除。
以下の章立てです。
1) 解離に似た感覚
2) 変わらない社会
3) 美術館の今後は
1) 解離に似た感覚
読売新聞が毎日載せていた、新型コロナウイルスの感染防止を呼びかけるコロナ標語の掲載がなくなり、NHK総合テレビの「あさイチ」では遠隔出演していた博多華丸・大吉コンビがいつの間にかスタジオに戻っている(近江アナとは距離を保った位置にすわっているが)。
2月から学校の休校が続いていて、4月中旬には非常事態宣言が全国に拡大した。
台湾など早期収束に成功した一部を除く世界各地からも、感染拡大の報道が毎日流れてきて、いつの間にかそれが日常になってきた感覚に染まっていた。
筆者は地方に住んでいるので、宣言がどうなろうと、マチの人通りはあいかわらず少ないし、日々の生活が劇的に変わるわけでもないという要因も手伝っているだろう。テレワークだ時差出勤だといっても、そういう環境にいないので、そもそもの実感がわかないままいまに至っている。
とはいえ、「日常に戻る」というのが、頭ではどんなことか分かっていても、なんだか不意打ちをくらったような感じがある。
あるいは、解離に似た心的な動きである。
美術館再開のブログ記事をまとめていたときは、まだ現実感にとぼしかったのだろうか。
2) 変わらない社会
こんどの新型コロナウイルス(COVID-19)危機は、世界が一変するのではないかという見立てを述べていた有識者も少なくなかった。
しかし日本社会は、旧に復そうという性格がかなり強い社会であると、筆者は考えている。
もうひとつ。人は「自分が生きている時代は激動期であり、自分は歴史の証人なのだ」と思いたがるフシがあるのではないか。でも、すべての時代が激動期であるはずがない。
人はこれまでの慣習を簡単には捨てられない。
たぶん、日本の社会はあまり変わらないだろう。
筆者が現実の世界と折り合いがつけられないことも、新型コロナウイルスとは関係なく、従前のことなのかもしれない。
3) 美術館の今後は
ただ、美術鑑賞・美術館に限っていえば、変化を余儀なくされることはあるだろう。
これはすでに多くの人が書いているので、筆者の独創でもなんでもないが、箇条書きにしてまとめてみる。
イ)伊藤若冲展や印象派展のような、長い列ができる大量動員型の展覧会は開けなくなる
ロ)海外、とくに西洋からの作品借り入れが難しくなる。作品は運べてたとしても、クーリエが入国できない
ハ)人が大勢集まるイベントや、接触の多いワークショップの開催が困難になる
ひとくちに「美術館」といっても、東京の有名館と、あまり人がたくさん訪れない地方の館では、状況が全く異なり、同列に論じることはできないだろう。
こんなことを言うとしかられそうだが、大型展覧会の少なくない部分はマスコミが主催しており、東京ではいざ知らず、北海道では収益のあがる事業ではまったくない。
マスコミの体力もなくなっていることだし、これを機に、主催を減らすこともないとはいえない(ほんとうのところはわからないが)。
「マスコミ主催の展覧会よりも、所蔵品の充実が望ましい」
正論だが、作品購入にこの20年、ロクな予算がついていないのが、道内の多くの美術館の現状ではないか。
アートツーリズムを盛り上げようにも、人の移動自体が歓迎すべきでない行為であるとされつつある。
短期的には、展覧会日程の組み替えに忙しいだろう。
せめて、これを機に、入場者数ばかりを競わせる行政の在り方が変わってくれればいいのだが。