(承前)
REBORN ART FESTIVAL(リボーンアート・フェスティバル)の公式サイトについて前項で少し書いたが、ここではまったくふれられていないことがある。
「3・11」だ。
このフェスティバルが、有名音楽プロデューサーの小林武史によって始められ、東日本大震災で大きな被害を受けた宮城県石巻市などを会場に繰り広げられるーということは、あえて記さなくても、みんなが知っている。
震災からの復興を後押しするという狙いは、わざわざうたうまでもない。
そういう判断なのだろうか。
会場にも、震災を思わせる説明文や看板のたぐいは少ない。
さすがに8年半もたっているから、直接的な地震や津波の爪痕はまず目につかない。
だから、つい忘れてしまいそうになる。
でも、よく見ると、このフェスティバルは「3・11」の記憶と経験抜きに成立しようがないことは、明らかなのだ。
画像は、桃浦エリアのインフォメーションブースだ。
となりに防潮堤が見える。
この地区の防潮堤はまだ低い方だが、それでも十分威圧的である。
これだけのコンクリートの塊が設置されれば、安心感はあるが、視界から海はさえぎられてしまう。
そして、画像の右側は、何もない更地になっている。
ちょっとだけ想像力を働かせれば、2011年3月11日までは、ここに家が建ち並んでいたことに気づくはずだ。
防潮堤は、いったい何を守ろうとしているのか。
県道2号を走っていると
「●●団地」
という看板に何度も出くわす。
デザインは統一されている。
県道からは見えないことが多いが、新しい一戸建て住宅がまとまっている。
最初は
「ふ~ん、こんな漁村にも団地があるんだ」
としか思っていなかったが、気づいてハッとした。
海沿いに住んでいた人たちの家が根こそぎ流されて、残った人たちが高台に家を再建したのだ。
だから、小さな入り江ごとに、団地があるのだ。
この「津波浸水区域」を示す看板も、あちこちの道路沿いに立っている。
最初、桃浦エリアの手前でこの看板を見たときには、驚いて大声を上げてしまった。
海沿いではなく、そのしばらく手前、海を見下ろす高台の近くに設置されていたからだ。
海辺よりも5、6メートルは高い場所だろう。
こんな高さまで津波が来たのか…。
電車に乗れば、災害時の対応について事細かに書いてある。
7年半たったとはいえ、注意深く見ていれば、震災の記憶はまだ生々しく刻印されているのである。
だから、例えばこういう作品(中崎透「Peach Beach, Summer School」)を見て、喜んでピースサインで写真を撮っている人たちがいるのが、自分には信じられなかった。
これも含めた多くの作品は、一帯を襲った大震災と津波を暗示している。
それに気づかないで、なにを見ているのだろう?
筆者は、ミヤコーバス(宮城交通)の停留所を見ただけで、2012年1月に南気仙沼駅跡で見たバスの残骸を思い出し、目頭が熱くなってしまうのだ。
桃浦から鮎川まで四つのエリアを一通り回った後、レンタカー会社の人にホテルまで送ってもらった。
そのとき、自然と「3.11」の話になった。
彼女の家はぎりぎり浸水しなかったものの、子を連れて避難したという。
そして、石巻市街地に比べると、漁村のほうは復興が遅れ気味であるとも言っていた。
「なんだか、つらいことを思い出させてしまったみたいですみません」
筆者がそう言うと
「来てくれるだけでありがたいんです。忘れないでいてくだされば」
と、応じてくれた。
考えてみれば、このアートフェスティバルがなければ、筆者は石巻を訪れなかっただろう。
震災のことも少しずつ忘れていったかもしれない。
とすれば、アートが被災地へ呼ぶ触媒になったのは、間違いないのだ。
恵みと災厄とをもたらす海。
忘れたい、しかし、記憶していたい災害。
リボーンアート・フェスティバルは、そういうアンビバレンツの割れ目の上に、美しい花を咲かせていたといえるのかもしれない。
さて、先を急ぎすぎて、9月23日の夕方の場面になってしまった。
次項から、リボーンアート・フェスティバルをエリアごとに紹介していこう。
2019年秋の旅(0) さくいん
REBORN ART FESTIVAL(リボーンアート・フェスティバル)の公式サイトについて前項で少し書いたが、ここではまったくふれられていないことがある。
「3・11」だ。
このフェスティバルが、有名音楽プロデューサーの小林武史によって始められ、東日本大震災で大きな被害を受けた宮城県石巻市などを会場に繰り広げられるーということは、あえて記さなくても、みんなが知っている。
震災からの復興を後押しするという狙いは、わざわざうたうまでもない。
そういう判断なのだろうか。
会場にも、震災を思わせる説明文や看板のたぐいは少ない。
さすがに8年半もたっているから、直接的な地震や津波の爪痕はまず目につかない。
だから、つい忘れてしまいそうになる。
でも、よく見ると、このフェスティバルは「3・11」の記憶と経験抜きに成立しようがないことは、明らかなのだ。
画像は、桃浦エリアのインフォメーションブースだ。
となりに防潮堤が見える。
この地区の防潮堤はまだ低い方だが、それでも十分威圧的である。
これだけのコンクリートの塊が設置されれば、安心感はあるが、視界から海はさえぎられてしまう。
そして、画像の右側は、何もない更地になっている。
ちょっとだけ想像力を働かせれば、2011年3月11日までは、ここに家が建ち並んでいたことに気づくはずだ。
防潮堤は、いったい何を守ろうとしているのか。
県道2号を走っていると
「●●団地」
という看板に何度も出くわす。
デザインは統一されている。
県道からは見えないことが多いが、新しい一戸建て住宅がまとまっている。
最初は
「ふ~ん、こんな漁村にも団地があるんだ」
としか思っていなかったが、気づいてハッとした。
海沿いに住んでいた人たちの家が根こそぎ流されて、残った人たちが高台に家を再建したのだ。
だから、小さな入り江ごとに、団地があるのだ。
この「津波浸水区域」を示す看板も、あちこちの道路沿いに立っている。
最初、桃浦エリアの手前でこの看板を見たときには、驚いて大声を上げてしまった。
海沿いではなく、そのしばらく手前、海を見下ろす高台の近くに設置されていたからだ。
海辺よりも5、6メートルは高い場所だろう。
こんな高さまで津波が来たのか…。
電車に乗れば、災害時の対応について事細かに書いてある。
7年半たったとはいえ、注意深く見ていれば、震災の記憶はまだ生々しく刻印されているのである。
だから、例えばこういう作品(中崎透「Peach Beach, Summer School」)を見て、喜んでピースサインで写真を撮っている人たちがいるのが、自分には信じられなかった。
これも含めた多くの作品は、一帯を襲った大震災と津波を暗示している。
それに気づかないで、なにを見ているのだろう?
筆者は、ミヤコーバス(宮城交通)の停留所を見ただけで、2012年1月に南気仙沼駅跡で見たバスの残骸を思い出し、目頭が熱くなってしまうのだ。
桃浦から鮎川まで四つのエリアを一通り回った後、レンタカー会社の人にホテルまで送ってもらった。
そのとき、自然と「3.11」の話になった。
彼女の家はぎりぎり浸水しなかったものの、子を連れて避難したという。
そして、石巻市街地に比べると、漁村のほうは復興が遅れ気味であるとも言っていた。
「なんだか、つらいことを思い出させてしまったみたいですみません」
筆者がそう言うと
「来てくれるだけでありがたいんです。忘れないでいてくだされば」
と、応じてくれた。
考えてみれば、このアートフェスティバルがなければ、筆者は石巻を訪れなかっただろう。
震災のことも少しずつ忘れていったかもしれない。
とすれば、アートが被災地へ呼ぶ触媒になったのは、間違いないのだ。
恵みと災厄とをもたらす海。
忘れたい、しかし、記憶していたい災害。
リボーンアート・フェスティバルは、そういうアンビバレンツの割れ目の上に、美しい花を咲かせていたといえるのかもしれない。
さて、先を急ぎすぎて、9月23日の夕方の場面になってしまった。
次項から、リボーンアート・フェスティバルをエリアごとに紹介していこう。
(この項続く)
2019年秋の旅(0) さくいん