入場券に印刷された出品同人の名前を見る。片岡球子が出品していない。今野忠一は4月に逝った。数年前までは最後尾のほうに名前があった菊川三織子の後に、10人以上の名前がある。時が止まっているかのような春の院展だけれど、やはり時間は過ぎているのだなと、うたた感慨を禁じえない。
さて、2年ぶりに見ての大ざっぱな印象は
1 都市風景や現代人の生活を描いた絵が減った
2 アジア諸地域に材を得た絵も少なくなった
3 画面に凹凸をつけるなどして、物質感、抵抗感みたいなものを強調した作品が多い
4 自然を、独自の視点で解釈しようとする絵が目立った
というようなあたりだった。
2の点についていえば、平山郁夫をはじめとする院展の画家たちにとって、アジアというのは、伝統的な風景がどんどん失われつつある日本に代わって、ロマン派的な心情を投影する格好の対象だったんじゃないかと思う。
今回の出品作でいえば、中国の川か運河が題材と思われる(日本でない、という確証はないけれど)佐藤元彦「夕照」や秦誠「水郷」などは、まさに、日本ではほとんど見られなくなった風景をアジアに探した作品ではないだろうか。
その代わりというわけではないだろうけど、欧洲に題材を得た作品が目に付いた。
札幌の小島和夫の「薔薇窓」は、ステンドグラスのある石造りの建物と男女を描いている。
丸山國生「ノルマンディーの風」は、抑えた色調が心地よいが、タッチは、院展にはめずらしく洋画に近い調子がある。
荒井孝「焚火」は、黒人がモデルだ。ユーラシア各地に題材をひろげてきた院展の日本画だけど、さすがに黒人となると、新鮮な感じがする。
もちろん、日本国内でロマン派的な心情を託すモティーフを探す画家もいるわけで、その際に、北海道がひとつの対象となることはいうまでもない(あまり数は多くないが)。大矢十四彦「北の挽歌」、斉藤博康「涓」などがそうだ。
3の、画面に凹凸をつけた作品は、森閑とした林の描写と、画面の凹凸が交錯して複雑なリズムを生んでいる、加藤恵「古道-熊野」(外務大臣賞)をはじめ、ほとんど落書きの文字だけで画面を構成するという意欲的な(それでいて佐伯祐三の絵とは見た目がずいぶん異なる)福家悦子「追憶 ヴェッキオ橋」、絵の具にわらなどを混ぜ、表面をしわくちゃにしたような効果を上げている松村公太「汀」(初出品)などが目を引く。
また、凹凸というのとはちょっと違うが、絵の具に工夫を施すことで、スムーズではない感じというか、物質感を強調しているような作品として、國司華子「咲ク月ノ宴」(無鑑査)や、武部雅子「窓に春」(春季展賞)がある。いずれも、わざと絵の具の存在を見る人に意識させるような絵である。
4については、筆者の好みなんだけど、風景に独自のやり方で接近することで、西洋伝来の抽象画とも、宗達光琳派のデザイン感覚・装飾感覚とも異なる画面を作り出している絵があるんじゃないかという見立てだ。
そういう見方でいうと、山崎佳代「青む」なんかは、モロ好み。水面に反射する木々と水底に沈んだ枝などを精緻に描いているのだけれど、青と白の濃淡の織りなす画面がほんとうに清新で気持ちいい。
巨樹を描き続けている石村雅幸の「根蘖(こんげつ)」は、色づいたイチョウの大木の根元を描いているが、おびただしい黄色の葉は、結果的に、点描のような輝かしい色彩の効果を上げている。明るい葉とは対照的に、節くれだった巨大な幹は輪郭線を伴って描写され、重量感と存在感をかもし出しているのもおもしろいと思う。
田中宗舟「白い水路」も、院展では異色の風景画。露光オーバーの写真のような、白っぽい色調だ。なぜか、リヒターの絵を思い出した。
宮北千織「潜む」も、全面にぶちまけられた色とりどりの絵の具の飛沫が特徴的だ。
長くなってきたからこのへんでやめるけれど、このほか、速水敬一郎「幽遠」は、霧にけぶる切り通しを描いて、個人的に好みだった。
それにしても、同人の作品についてぜんぜん触れていないな。
(文中敬称略)
5月23日(火)-28日(日)10:00-20:00(最終日-18:00)
三越札幌店10階特設会場
さて、2年ぶりに見ての大ざっぱな印象は
1 都市風景や現代人の生活を描いた絵が減った
2 アジア諸地域に材を得た絵も少なくなった
3 画面に凹凸をつけるなどして、物質感、抵抗感みたいなものを強調した作品が多い
4 自然を、独自の視点で解釈しようとする絵が目立った
というようなあたりだった。
2の点についていえば、平山郁夫をはじめとする院展の画家たちにとって、アジアというのは、伝統的な風景がどんどん失われつつある日本に代わって、ロマン派的な心情を投影する格好の対象だったんじゃないかと思う。
今回の出品作でいえば、中国の川か運河が題材と思われる(日本でない、という確証はないけれど)佐藤元彦「夕照」や秦誠「水郷」などは、まさに、日本ではほとんど見られなくなった風景をアジアに探した作品ではないだろうか。
その代わりというわけではないだろうけど、欧洲に題材を得た作品が目に付いた。
札幌の小島和夫の「薔薇窓」は、ステンドグラスのある石造りの建物と男女を描いている。
丸山國生「ノルマンディーの風」は、抑えた色調が心地よいが、タッチは、院展にはめずらしく洋画に近い調子がある。
荒井孝「焚火」は、黒人がモデルだ。ユーラシア各地に題材をひろげてきた院展の日本画だけど、さすがに黒人となると、新鮮な感じがする。
もちろん、日本国内でロマン派的な心情を託すモティーフを探す画家もいるわけで、その際に、北海道がひとつの対象となることはいうまでもない(あまり数は多くないが)。大矢十四彦「北の挽歌」、斉藤博康「涓」などがそうだ。
3の、画面に凹凸をつけた作品は、森閑とした林の描写と、画面の凹凸が交錯して複雑なリズムを生んでいる、加藤恵「古道-熊野」(外務大臣賞)をはじめ、ほとんど落書きの文字だけで画面を構成するという意欲的な(それでいて佐伯祐三の絵とは見た目がずいぶん異なる)福家悦子「追憶 ヴェッキオ橋」、絵の具にわらなどを混ぜ、表面をしわくちゃにしたような効果を上げている松村公太「汀」(初出品)などが目を引く。
また、凹凸というのとはちょっと違うが、絵の具に工夫を施すことで、スムーズではない感じというか、物質感を強調しているような作品として、國司華子「咲ク月ノ宴」(無鑑査)や、武部雅子「窓に春」(春季展賞)がある。いずれも、わざと絵の具の存在を見る人に意識させるような絵である。
4については、筆者の好みなんだけど、風景に独自のやり方で接近することで、西洋伝来の抽象画とも、宗達光琳派のデザイン感覚・装飾感覚とも異なる画面を作り出している絵があるんじゃないかという見立てだ。
そういう見方でいうと、山崎佳代「青む」なんかは、モロ好み。水面に反射する木々と水底に沈んだ枝などを精緻に描いているのだけれど、青と白の濃淡の織りなす画面がほんとうに清新で気持ちいい。
巨樹を描き続けている石村雅幸の「根蘖(こんげつ)」は、色づいたイチョウの大木の根元を描いているが、おびただしい黄色の葉は、結果的に、点描のような輝かしい色彩の効果を上げている。明るい葉とは対照的に、節くれだった巨大な幹は輪郭線を伴って描写され、重量感と存在感をかもし出しているのもおもしろいと思う。
田中宗舟「白い水路」も、院展では異色の風景画。露光オーバーの写真のような、白っぽい色調だ。なぜか、リヒターの絵を思い出した。
宮北千織「潜む」も、全面にぶちまけられた色とりどりの絵の具の飛沫が特徴的だ。
長くなってきたからこのへんでやめるけれど、このほか、速水敬一郎「幽遠」は、霧にけぶる切り通しを描いて、個人的に好みだった。
それにしても、同人の作品についてぜんぜん触れていないな。
(文中敬称略)
5月23日(火)-28日(日)10:00-20:00(最終日-18:00)
三越札幌店10階特設会場
「院展」行って良かったです。いわゆる日本画の枠を出ようとする動きもあるのだと思いました。
事情をよく知らないわたしが言うのもなんなんですが、いわゆる日本画の枠を出ようとする動きは、院展にはほとんどないと思います。
私の日本画の概念が狭いんでしょうかね。
日経でやってる賞「明日の日本画展」(名前うろ覚え)では、日展と院展の画家はほとんどエントリされてないみたいです。
日本美術院に現代美術風の日本画は何かそぐわない気がしますが、意欲的な現代風絵画、抽象に近いものも何点かあったようですね。もっとも私はモチーフが具体的なものであっても作者の解釈が思惟的に向かっているものであれば具象抽象の区別無く鑑賞できますが。要は受け手の姿勢の問題かも知れません。
そう言われると元も子もないというか、おっしゃるとおりとしか言えないのですが、美術としてそれでいいのか、という気もするのです。
これは「公募展としてそれでいいのか」
という意味だと思いますが、日本美術院にいわゆる現代美術風という作品の審査を責任をもってできるとする仕組みがあるかということと、その画風の作品をもってして今日のまたは明日の院展作品であるという明確な団体としての主張がなければ、出来ない相談だと思います。
他を圧倒する作品の完成度、作家の安定性、作画の姿勢など審査の要件を満たせば通ることはあると思いますが、現在の院展での審査に適合するかしないかの問題なのだと思います。意図的に排除しているとは思いたくありませんが、公募展の審査は責任が伴うという点ではどこの展覧会でも同じだと思います。
少し、生意気な書き方ですが日本画とはなんぞやという事に帰結しますが他の手段(油彩やアクリルなど)でも表現できる作品であれば日本画であるべきだという明確な主張を作品に表すのが作家の責任でもあると思います。
審査基準などがないにもかかわらず、なんとなく傾向が似通ってきて、新しい試みも少ないというのは、けっしてほめられたことではないと思います。
>他の手段(油彩やアクリルなど)でも表現できる作品であれば日本画であるべきだという明確な主張を作品に表すのが作家の責任でもあると思います
なるほど。
でも、どうなんでしょう。逆の場合を考えてみてほしいのですが、油彩の作品だったら、日本画でも表現できるから油彩であるべきだという主張を盛り込むように―ということになりますかね。
院展の図録を見て「おや?」と思うほどの画風(モチーフ)、彩度、明度の統一性と言うほどの似通った部分はご指摘のとおりと感じます。
後段の油彩と日本画の違いは明白でしょう。
油彩はフレスコを土台にして居るような所があるからマチエールにものすごく比重が置かれると思いますし、顔料が展開されているメディウム(この場合乾性油)に粘性があり、ある程度の盛り上げが可能です。
また、メディウムとしての各種のワニスを併用することで顔料の隙間を調節出来るので光の到達度を調整でき、色の深みや隠蔽力をアレンジすることが可能です。
日本画は、にかわがほとんど唯一のメディウムですから顔料そのままの発色と深みで表現するという限界があるでしょう。顔料の隙間を調節する自由度も限られています(顔料の延ばしは水彩の方が自由度が高い)。
にかわは光の屈折が少なく顔料が直接光にさらされますので隠蔽力が弱く色の深みを絵の具の塗り重ねで表現することになります。
線描は日本画の方が自由度が高く伸びやかに出来ると思います。
下地も最近は固着力が強くある程度自由が効くようですが本来のものではないと思います。
双方でアクリルの下地材を使ったり日本画や水彩ではアクリルのメディウムも使用するようですがいずれも伝統的技法という範囲からはずれるものでしょう。
蛇足ですが、伝統からはずれることが邪道と言うことではなく油彩・日本画神学論を述べるときに邪魔になっているから便宜上今は排除しているのです。
したがって、油彩でさらさらした風合いの絵肌を作ることは可能ですが擬似的なものでそれは油彩の本質ではない。日本画でナイフを使ったり、盛り上げたり、スクラッチを用いてもそれは本質ではない。試みとしては良いが日本美術院がそれを採用していないということだと思います。
公募展が表現の場として相対化し多数の団体が存在している現在では、美術としての可能性を表現することと一公募展が「審査に採用している現状」というものは論点にはならないと思います。