60年安保闘争から半世紀。6月15日は、国会デモを機動隊が排除しようとして、東大生だった樺美智子さんが亡くなった日だ。
おなじデモ隊列にいて難を免れた元東大生がいまでも黙々と米軍基地反対闘争に取り組んでいるという記事が、きのう15日の朝日新聞に載っていた。
もとよりわたしは当時のことを知らない。
ただ、一般の商店主もシャッターをおろして続々とデモ隊に加わったことや、高校の教師と生徒がともにデモに繰り出したところもあったという話は、経験者から聞いた。羽田空港におりたった米高官は、デモ隊に取り囲まれ、ほうほうの体で逃げ帰った。
当時はテレビがほとんど普及していなかった。国会周辺に最後まで踏みとどまり、機動隊が根こそぎ学生たちを排除していく様子を伝えたのは、ラジオ関東(現ラジオ日本)だった。翌朝(1960年6月16日)は駅の売店で、新聞各紙が売り切れてしまったという。
学生が過激化した全共闘のころに比べると、一般の勤め人が学生たちに寄せる共感が大きかったのが特徴だった。
樺さんの遺稿をまとめた本「人知れず微笑まん」はベストセラーとなった。
米軍機が日本のほとんどの都市を焼け野原にしてから、まだ15年しかたっておらず
「戦争はこりごりだ」
というのが、左派右派を問わず、ある程度の共通認識になっていたのだと思う。
そもそも平和憲法を持った日本に軍事同盟なんぞがあるのがけしからん。粉砕せよ。-単純にそう思った人も多かったのではないか。
軍備放棄の理想主義が勢力を失って久しい。
若い層にナショナリスティックな言辞を吐く現象も目につく。
国会を十重二十重に取り巻いたあの理想の炎は、いったいどこに消えてしまったんだろうと、おじさんは思うのである。