北海道新聞08年7月19日朝刊から。
□http://www.sekiguchi-muse.jp/
同美術館のサイト(上にリンク)に関口さんの年譜が載っている。
それによると、
筆者は関口さんにお会いしたことはないが、書状のやりとりは何度かある。
相当以前のことだが、デッサンと短いエッセーの執筆をお願いしたのがきっかけだ。
「美術の窓」で、日展出品作の絵の図版を見た。小さな図版からでも、北国の厳しい自然に向かい合う心意気のようなものが、つたわってきたので、依頼したのだった。
芸術の森のすぐ近くにある関口雄揮美術館で作品を見ると、師匠・東山魁夷の影響は明らかながらも、モノトーンを基調に、北海道の自然を凝視しつづけ描きつづけた画家の一途な歩みには、感服せざるを得ない。
ご冥福をお祈りします。
以下、書かずもがなのこと。
有名人が亡くなった直後、検索サイトでその人の名をひくと、各新聞社のサイトばかりが上位に来て、調べるのにかえってわずらわしかったりするが、「関口雄揮」の場合はそうではなかった。
日展という組織は、やたらと役職が多いところで、理事だの監事だのという肩書きのついた記事がくれば、死亡記事として載せざるを得ない-というところがある。
意外にも、関口さんは、たんなる「会員」であって、役員ではなかった。だから、各紙には死亡記事が出ていない。
力量からみて、もっとえらい人なのかと、素朴に思っていた。
日展も大きな組織だから、えらくなるためには、それなりにいろいろなしがらみなどがあるのだろう。推測にすぎないが。
関口さんが北海道に足繁く通っていたのは、案外、そういうものからのがれていたかったのかもしれない-というのは、うがちすぎだろうか。
関口雄揮さん(せきぐち・ゆうき、本名雄三郎=ゆうざぶろう=、日本画家)17日午後7時5分、心不全のため死去、85歳。埼玉県出身。自宅は千葉県(中略)。 道内の風景を描き続け、2005年、札幌市南区に日本画など3千点を収蔵する「関口雄揮記念美術館」がオープンした。
□http://www.sekiguchi-muse.jp/
同美術館のサイト(上にリンク)に関口さんの年譜が載っている。
それによると、
1942年 東京美術学校(現・東京藝術大学)日本画科入学
1943年 戦況の悪化により学徒出陣。旧・満州へ出征
1948年 東京藝術大学日本画科卒業。【晩秋呼冬】で日展第一部(日本画部)に初入選
1952年 戦後初の文部省給費留学生として渡仏、アカデミー・ランソンに入学
1953年 帰国
1954年 東山魁夷に師事
1977年 北海道の冬を題材とした【凍原】を制作。これ以後、北海道の自然を描き続ける
筆者は関口さんにお会いしたことはないが、書状のやりとりは何度かある。
相当以前のことだが、デッサンと短いエッセーの執筆をお願いしたのがきっかけだ。
「美術の窓」で、日展出品作の絵の図版を見た。小さな図版からでも、北国の厳しい自然に向かい合う心意気のようなものが、つたわってきたので、依頼したのだった。
芸術の森のすぐ近くにある関口雄揮美術館で作品を見ると、師匠・東山魁夷の影響は明らかながらも、モノトーンを基調に、北海道の自然を凝視しつづけ描きつづけた画家の一途な歩みには、感服せざるを得ない。
ご冥福をお祈りします。
以下、書かずもがなのこと。
有名人が亡くなった直後、検索サイトでその人の名をひくと、各新聞社のサイトばかりが上位に来て、調べるのにかえってわずらわしかったりするが、「関口雄揮」の場合はそうではなかった。
日展という組織は、やたらと役職が多いところで、理事だの監事だのという肩書きのついた記事がくれば、死亡記事として載せざるを得ない-というところがある。
意外にも、関口さんは、たんなる「会員」であって、役員ではなかった。だから、各紙には死亡記事が出ていない。
力量からみて、もっとえらい人なのかと、素朴に思っていた。
日展も大きな組織だから、えらくなるためには、それなりにいろいろなしがらみなどがあるのだろう。推測にすぎないが。
関口さんが北海道に足繁く通っていたのは、案外、そういうものからのがれていたかったのかもしれない-というのは、うがちすぎだろうか。