初めての札幌国際芸術祭の開幕が近づいてきた。
筆者のように、美術に興味のある札幌市民は、みな待ち望んでいるところだろう。
しかし、一般の市民の関心は決して高いわけではない。
ネガティブキャンペーンのようなことをくりかえし、「札幌国際芸術祭は(失敗に終わった)『食の祭典』の二の舞に終わる」と、吹聴してまわっている人もいるようである。
まだ始まってもいないうちから、足を引っ張り合うのも、なんだかな~と思うし、ゲストディレクターの坂本龍一氏の反原発の姿勢をことさらに取り上げて、札幌国際芸術祭に結びつけようというのも、おかしな話であろう(坂本氏が別に反原発だろうが原発推進だろうがかまわないと筆者は思う。しかも、氏は、芸術祭の記者会見などでは、原発の「げ」の字も口にしていない)。
ただし、やはり認識の違いみたいなものは市民の間にあると思われるので、ここでいくつかのポイントについて、筆者の考えを述べておきたい。
1. 「まつり」って何さ
「祭りとは、地元の人々に支持されてこそ、存在の意義がある。地元民もよく知らないような祭り、地元の参加が少ない祭りは、意味がない」
こういうことを言う人が、よくいる。
まだ一度も開かれたことのない祭りについて「よく知られていない」と非難するのは、あまりフェアではないだろう。
筆者が思うに、「祭り」の方向性には2種類あるのではないか。
たとえば、北海道神宮祭(札幌まつり)や、小樽潮まつりは、札幌や小樽の市民が楽しむものであろう。別に、この祭りによって、観光客を呼び込もうとか、そういうたぐいのものではない。豊作を祈ったりするまつりは、地元の人々のために昔から存在している。
しかし、たとえば「さっぽろ雪まつり」は、少し違う。
もちろん市民も参加するし、大勢見に行くのだが、よその土地からお客さんがたくさん来ることが期待されている。
「地元」と「観光客」ということでいえば、札幌国際芸術祭は、圧倒的に後者の比重が高い。
つまり
「アンゼルム・キーファーの作品が来るのか。それは見たい」
などという反応を見せる人が主なターゲットなのである。
はっきり言って、札幌市民の99%は、キーファーを知らないだろう。
しかし、ドイツ現代美術を代表するこの作家の作品にふれてみたい―という人は、全国や海外に、多くはないが確実にいる。
筆者は以前、横浜や越後妻有(つまり)のトリエンナーレに出かけた。時間的余裕があれば、瀬戸内の芸術祭にも行きたかった。いずれも、全国各地から大勢の人が来た。いわば、成功例だ。
似たような例は、カンヌ国際映画祭とか、別府のアルゲリッチ音楽祭とか、枚挙にいとまがないだろう。
南フランスの保養地に住む人みんなが昔からどうしようもない映画好きだったとか、別府にはクラシック音楽を好む人が際立って多いとか、そんな話は聞いたことがない。
だが、これらの「祭り」は、北海道神宮祭や小樽潮まつりとは異なる種類の祭りだ。
全国のアート好きが訪れて、札幌にお金を落としていき、札幌という都市のブランド力を高めてくれれば、それに越したことはないのである。
「けっ、なんだかなじみの薄い分野だなあ。みんなが好きそうなイベントをやればいいのに」
と思った人もいるだろう。それはある意味で正しいが、じつは、誰もがなんとなく知っていて、それなりに関心を持っている分野というのは、たいていの場合、わざわざ遠方から押し寄せる熱心なファンがいない分野でもあるということは、アタマに入れておいてほしいのだ。
2. 地元枠について
この種の催しになると
「自分たちも出品させろ」
という人たちがかならず出てくる。
べつに、北海道の作家をまったくないがしろにしているわけではないにもかかわらず、である。
今回の札幌国際芸術祭でいえば、岡部昌生さんや露口啓二さんなどが出品する。個人的な感想を許してもらえれば、むしろこの手の催しにしては、道内からの出品が多いくらいだいう印象をもっている。
不思議なことに、たとえば、ワールドカップのサッカーや、オリンピックが開催される場合には、
「地元のチームや選手を出せ」
という人はあまりいない。
かつて日韓合同のワールドカップのサッカーの試合が札幌で行われたときに
「札幌で開かれるんだから、ドイツ対サウジアラビアより、コンサドーレの試合を実施すべきだ。アンフィニ札幌や室蘭大谷高校も忘れるな」
との主張は、まったくといっていいほど聞かれなかった。
当たり前である。
いくら地元の強豪だとはいえ、そんなチームの試合を誰が道外、世界から見に来るだろうか。
国際芸術祭とは、おおまかにいえば、ワールドカップなのだ。
芸術がスポーツと違う点として、スポーツは、水準の差が数字として誰にでもはっきりとわかるかたちで可視化されるのに対し、芸術は、水準の差が一見わかりづらい、という部分はたしかにある。
だが、構造というか、原理は同じことである。
道内の美術家ばかりが名を連ねているような芸術祭を、誰が(とくに、道外から)見に来るというのか。
ちょっと考えたら、わかることではないか。
だから、今回の実行委も、全国・世界水準の美術家を、道内道外問わず選ぶのに苦心しているのではないか(テーマがまずあって、それに沿った作家の選択がなされているので、選ばれていないから水準が低いということでは、もちろんない)。
(だいたい「地元枠」なんて設けるほうが、地元の作家に対して失礼じゃないですかね)
ただし
「北海道にも頑張っている美術家は多い。単に距離的なハンディキャップのために、全国にあまり知られていないだけだ」
という誇りがあるとしたら、それは理解できるし、共感を寄せたい。
そういうプライドを持っている人たちは、ぜひ、ゲリラ的にでも正面切ってでもいいから、札幌国際芸術祭と同じ時期に、ちかくの会場で作品を発表してもらいたい。
芸術祭をめあてに札幌を訪れた人が、ついでに(というと言葉は悪いが)立ち寄って
「北海道にもこんなすばらしい美術家がいるのか」
と驚くかもしれない。
その人がキュレーターや美術館関係者、評論家だったりしたら、次に道外や海外で行われる芸術祭やトリエンナーレに出品してみないかと、道内の作家に声がかかるかもしれない。
それだけでも、札幌で国際芸術祭を開いた意味はあったのだと、まじめに思う。
(まあ、すでに、そんな感じの流れになりつつありますが)
3. PRは足りているか
筆者は「PR不足」という批判は、一般にはあまり意味のないことだと考えている。
などというと、エラソーに聞こえるかもしれない。
とはいえ、新聞のコラムにも先日書いたけれど、バス車内で運転手さんに向かって
「ウィズユーカードください」
と言って千円札を差し出す人の姿をほぼ毎日のように見ていると、
何を言っても、届かない人のところには届かない
という、諸行無常の気分にならざるを得ないのである。
それはさておき、某市議のブログに
「知名度をアップするには、早い時期に集中的にテレビ広告などを投下するのが良い」
という意味のことが書いてあった。
たしかにそれは正しい指摘なのだが、筆者などは
「それって税金でしょ? 札幌国際芸術祭を税金の無駄遣いだと批判してる人が、それを言うわけ?」
とあきれざるを得ない。
では、税金をあまり使わずに効果的にPRをするにはどうしたらいいのか。
大半の美術展でとられている手法は、マスコミを主催者に巻き込むことである。
北海道新聞の夕刊1面で毎日、徳川美術館のお宝がカラー写真つきで紹介されている。
あれくらい目立つ扱いを広告でやろうと思ったら、何百万円かかるかわかったものではない。
あんなことができるのは、徳川美術館展が北海道新聞社の主催だからである。
しかし、この手法は両刃の刃である。
つまり北海道新聞以外の媒体での露出が極端に少なくなってしまうのだ。当たり前と言えば当たり前だが。
この限界を超えるためには、そのイベントが、主催するマスコミがどこかなどということが世間的にはどうでもよくなっているほどメジャーになる必要があろう。たとえば、全国高校野球大会は、春が毎日新聞社、夏が朝日新聞社の主催であるが、読売新聞やNHKの大々的な報道ぶりを見ていると、主催社のことなど全く念頭にないかのようである。
ただ、この域にまで達したイベントはきわめてすくないといっていい。
都市対抗野球(毎日新聞社主催)、読売書法展(読売新聞社主催)など、主催社の新聞を購読していない人にとっては、なじみの薄い催しのほうが世の中には多い。
昨年の「あいちトリエンナーレ」は、主催に、中日新聞社が名を連ねていた。
筆者は当時の名古屋の報道状況を調査したわけでないので、断定はできないが、中日新聞とそれ以外の新聞・テレビで、報道量で相当な差がついたことは推測できる。
それでも、中京圏での中日新聞のシェアが圧倒的であることから、他の媒体にあまり露出しないデメリットを上回る宣伝効果があったのだろう。
今回、札幌国際芸術祭については、北海道新聞社や札幌テレビ放送(STV)といったマスコミが主催に加わることはなかった。それが実行委側の意思なのかマスコミ側の事情なのかはわからないが、国際芸術祭の報道が一社独占にならないかわりに、露出の絶対量も少なくなったことは否めない。
どっちに転がっても、うまくいかないことは出てくるものなのだ。
筆者のように、美術に興味のある札幌市民は、みな待ち望んでいるところだろう。
しかし、一般の市民の関心は決して高いわけではない。
ネガティブキャンペーンのようなことをくりかえし、「札幌国際芸術祭は(失敗に終わった)『食の祭典』の二の舞に終わる」と、吹聴してまわっている人もいるようである。
まだ始まってもいないうちから、足を引っ張り合うのも、なんだかな~と思うし、ゲストディレクターの坂本龍一氏の反原発の姿勢をことさらに取り上げて、札幌国際芸術祭に結びつけようというのも、おかしな話であろう(坂本氏が別に反原発だろうが原発推進だろうがかまわないと筆者は思う。しかも、氏は、芸術祭の記者会見などでは、原発の「げ」の字も口にしていない)。
ただし、やはり認識の違いみたいなものは市民の間にあると思われるので、ここでいくつかのポイントについて、筆者の考えを述べておきたい。
1. 「まつり」って何さ
「祭りとは、地元の人々に支持されてこそ、存在の意義がある。地元民もよく知らないような祭り、地元の参加が少ない祭りは、意味がない」
こういうことを言う人が、よくいる。
まだ一度も開かれたことのない祭りについて「よく知られていない」と非難するのは、あまりフェアではないだろう。
筆者が思うに、「祭り」の方向性には2種類あるのではないか。
たとえば、北海道神宮祭(札幌まつり)や、小樽潮まつりは、札幌や小樽の市民が楽しむものであろう。別に、この祭りによって、観光客を呼び込もうとか、そういうたぐいのものではない。豊作を祈ったりするまつりは、地元の人々のために昔から存在している。
しかし、たとえば「さっぽろ雪まつり」は、少し違う。
もちろん市民も参加するし、大勢見に行くのだが、よその土地からお客さんがたくさん来ることが期待されている。
「地元」と「観光客」ということでいえば、札幌国際芸術祭は、圧倒的に後者の比重が高い。
つまり
「アンゼルム・キーファーの作品が来るのか。それは見たい」
などという反応を見せる人が主なターゲットなのである。
はっきり言って、札幌市民の99%は、キーファーを知らないだろう。
しかし、ドイツ現代美術を代表するこの作家の作品にふれてみたい―という人は、全国や海外に、多くはないが確実にいる。
筆者は以前、横浜や越後妻有(つまり)のトリエンナーレに出かけた。時間的余裕があれば、瀬戸内の芸術祭にも行きたかった。いずれも、全国各地から大勢の人が来た。いわば、成功例だ。
似たような例は、カンヌ国際映画祭とか、別府のアルゲリッチ音楽祭とか、枚挙にいとまがないだろう。
南フランスの保養地に住む人みんなが昔からどうしようもない映画好きだったとか、別府にはクラシック音楽を好む人が際立って多いとか、そんな話は聞いたことがない。
だが、これらの「祭り」は、北海道神宮祭や小樽潮まつりとは異なる種類の祭りだ。
全国のアート好きが訪れて、札幌にお金を落としていき、札幌という都市のブランド力を高めてくれれば、それに越したことはないのである。
「けっ、なんだかなじみの薄い分野だなあ。みんなが好きそうなイベントをやればいいのに」
と思った人もいるだろう。それはある意味で正しいが、じつは、誰もがなんとなく知っていて、それなりに関心を持っている分野というのは、たいていの場合、わざわざ遠方から押し寄せる熱心なファンがいない分野でもあるということは、アタマに入れておいてほしいのだ。
2. 地元枠について
この種の催しになると
「自分たちも出品させろ」
という人たちがかならず出てくる。
べつに、北海道の作家をまったくないがしろにしているわけではないにもかかわらず、である。
今回の札幌国際芸術祭でいえば、岡部昌生さんや露口啓二さんなどが出品する。個人的な感想を許してもらえれば、むしろこの手の催しにしては、道内からの出品が多いくらいだいう印象をもっている。
不思議なことに、たとえば、ワールドカップのサッカーや、オリンピックが開催される場合には、
「地元のチームや選手を出せ」
という人はあまりいない。
かつて日韓合同のワールドカップのサッカーの試合が札幌で行われたときに
「札幌で開かれるんだから、ドイツ対サウジアラビアより、コンサドーレの試合を実施すべきだ。アンフィニ札幌や室蘭大谷高校も忘れるな」
との主張は、まったくといっていいほど聞かれなかった。
当たり前である。
いくら地元の強豪だとはいえ、そんなチームの試合を誰が道外、世界から見に来るだろうか。
国際芸術祭とは、おおまかにいえば、ワールドカップなのだ。
芸術がスポーツと違う点として、スポーツは、水準の差が数字として誰にでもはっきりとわかるかたちで可視化されるのに対し、芸術は、水準の差が一見わかりづらい、という部分はたしかにある。
だが、構造というか、原理は同じことである。
道内の美術家ばかりが名を連ねているような芸術祭を、誰が(とくに、道外から)見に来るというのか。
ちょっと考えたら、わかることではないか。
だから、今回の実行委も、全国・世界水準の美術家を、道内道外問わず選ぶのに苦心しているのではないか(テーマがまずあって、それに沿った作家の選択がなされているので、選ばれていないから水準が低いということでは、もちろんない)。
(だいたい「地元枠」なんて設けるほうが、地元の作家に対して失礼じゃないですかね)
ただし
「北海道にも頑張っている美術家は多い。単に距離的なハンディキャップのために、全国にあまり知られていないだけだ」
という誇りがあるとしたら、それは理解できるし、共感を寄せたい。
そういうプライドを持っている人たちは、ぜひ、ゲリラ的にでも正面切ってでもいいから、札幌国際芸術祭と同じ時期に、ちかくの会場で作品を発表してもらいたい。
芸術祭をめあてに札幌を訪れた人が、ついでに(というと言葉は悪いが)立ち寄って
「北海道にもこんなすばらしい美術家がいるのか」
と驚くかもしれない。
その人がキュレーターや美術館関係者、評論家だったりしたら、次に道外や海外で行われる芸術祭やトリエンナーレに出品してみないかと、道内の作家に声がかかるかもしれない。
それだけでも、札幌で国際芸術祭を開いた意味はあったのだと、まじめに思う。
(まあ、すでに、そんな感じの流れになりつつありますが)
3. PRは足りているか
筆者は「PR不足」という批判は、一般にはあまり意味のないことだと考えている。
などというと、エラソーに聞こえるかもしれない。
とはいえ、新聞のコラムにも先日書いたけれど、バス車内で運転手さんに向かって
「ウィズユーカードください」
と言って千円札を差し出す人の姿をほぼ毎日のように見ていると、
何を言っても、届かない人のところには届かない
という、諸行無常の気分にならざるを得ないのである。
それはさておき、某市議のブログに
「知名度をアップするには、早い時期に集中的にテレビ広告などを投下するのが良い」
という意味のことが書いてあった。
たしかにそれは正しい指摘なのだが、筆者などは
「それって税金でしょ? 札幌国際芸術祭を税金の無駄遣いだと批判してる人が、それを言うわけ?」
とあきれざるを得ない。
では、税金をあまり使わずに効果的にPRをするにはどうしたらいいのか。
大半の美術展でとられている手法は、マスコミを主催者に巻き込むことである。
北海道新聞の夕刊1面で毎日、徳川美術館のお宝がカラー写真つきで紹介されている。
あれくらい目立つ扱いを広告でやろうと思ったら、何百万円かかるかわかったものではない。
あんなことができるのは、徳川美術館展が北海道新聞社の主催だからである。
しかし、この手法は両刃の刃である。
つまり北海道新聞以外の媒体での露出が極端に少なくなってしまうのだ。当たり前と言えば当たり前だが。
この限界を超えるためには、そのイベントが、主催するマスコミがどこかなどということが世間的にはどうでもよくなっているほどメジャーになる必要があろう。たとえば、全国高校野球大会は、春が毎日新聞社、夏が朝日新聞社の主催であるが、読売新聞やNHKの大々的な報道ぶりを見ていると、主催社のことなど全く念頭にないかのようである。
ただ、この域にまで達したイベントはきわめてすくないといっていい。
都市対抗野球(毎日新聞社主催)、読売書法展(読売新聞社主催)など、主催社の新聞を購読していない人にとっては、なじみの薄い催しのほうが世の中には多い。
昨年の「あいちトリエンナーレ」は、主催に、中日新聞社が名を連ねていた。
筆者は当時の名古屋の報道状況を調査したわけでないので、断定はできないが、中日新聞とそれ以外の新聞・テレビで、報道量で相当な差がついたことは推測できる。
それでも、中京圏での中日新聞のシェアが圧倒的であることから、他の媒体にあまり露出しないデメリットを上回る宣伝効果があったのだろう。
今回、札幌国際芸術祭については、北海道新聞社や札幌テレビ放送(STV)といったマスコミが主催に加わることはなかった。それが実行委側の意思なのかマスコミ側の事情なのかはわからないが、国際芸術祭の報道が一社独占にならないかわりに、露出の絶対量も少なくなったことは否めない。
どっちに転がっても、うまくいかないことは出てくるものなのだ。
市民のためのお祭りなら、まだ無駄遣の言い訳がしやすいと思います。
大好きですね、そういうの!
札幌国際芸術祭非公認ギャラリーですけれど、呼んだ?
さて、コメント、感謝します。
寺島さんの疑問はもっともだと思います。
ただ、単純に経済合理性で片付けるのもどうかなという気もします。また別の記事で書きます。
asanoさん、そうでしょ!?
パリ万博より、その横で勝手に個展をやったクールベのほうが有名です。
(アートスペース201)さん
くつした企画、なんかやるんですか?
本当に下記のとおりなら札幌のホテルは予約で一杯になっているはずですがそうは思えません。
「国際芸術祭とは、おおまかにいえば、ワールドカップなのだ。」
傍観する立場でしたが、何をもって成果とするか、という事が、税金を払っている(つまりイベント費用を負担した)市民に事前に説明されていないし、批判されるのは自業自得だと思います。
仰るような観光誘致だとすれば、収益事業ですよね。でも、本当は違うことを言いたいのではないですか?「アート」を持ってお金ではない何らかの成果を出したいのであれば、それが何かをちゃんと説明してください。思うのですが、主催側もこういう事をちゃんと詰めていないまま実行していませんか。
>何を言っても、届かない人のところには届かない
そうでしょうか?では具体的に大半の人に伝える努力はしているんですか?ポスターやHPやSNS作って、有名なアーティスト呼んだだけじゃ内輪の人間しか来ないのが想像つきませんか。そういう一部の人間だけば集えば成功!というイベントに市民が義務で払っている税金を使わないでくれ、というのが世の中の批判の意味だと思います。
十勝のガーデンショーの事知ってますか?あれは十勝毎日新聞という地元メディアが主催だったので今回の状況より有利でしたが、初めてのイベントで、主催者は自腹でチケットの大半を買って配ったし(それだけ自己責任意識があった)、かなり前からアタックリストを作って本州の企業や大手旅行代理店にも宣伝活動していたんですよ。今回の主催者はそれぐらいやったんですか?主催者がチケットを買って自作自演する事をネガティブに捉えているような報道も見かけますが、イベントの世界ではそれぐらいやって当たり前です。
そもそも収益意識を持たずに他人のお金でイベントをやって何の痛みも無く責任も取らずに消えていくのは許されない事だし、二度と起きてほしくないことです。主催者、参加アーティスト、関係者が皆危機意識を持ってほしいです。そして2回目がもしあるなら、ちゃんとイベント事業のプロを主催者に任命して欲しいです。
キノコ雲や飛行機を大通公園や知事公館や市役所のロビーに設置するとか、客が来るのを待つのではなく、作品を移動させたらどうでしょうかね。その行為自体が現代アートです。
芸術祭の成果はすぐには現れず、数年かかるものでしょうから他のイベントとスケールの同じ評価尺度では出来ないのです。
その辺を勉強してから批判してほしいと思います。
美術の作品は技術的にはとりあえず数年修行すれば達成可能なものですから、今回の芸術祭で感銘を受けた世代が数年後に作家として何人か出てくれれば大成功といえます。
私が収益のことを中心に書いたのが悪いのですが、札幌国際芸術祭をはじめとするアートの催しや展覧会が、収益を目的として開かれるというのは誤解です。単独でもうかる事業なら民間がとっくに単独で手を挙げているでしょう。そのことは、別エントリで書きましたので、お読みいただければ幸いです。
あと、札幌のホテルは、国際芸術祭があろうとなかろうと、夏場は込んでいるようです。逐一調査したわけではないので、断言はできませんが。
おっしゃるとおりだと思います。
美術作家、画家でなくても、札幌人の教養(広い意味での)になればいいと思うのです。