札幌屈指の老舗画廊である札幌時計台ギャラリーが隔月で発行しているフリーペーパー「21 ACT」。
数人のコラム執筆者が毎号、同ギャラリーで開かれた展覧会評などに健筆をふるっている。
執筆者のうち「藤波久吾」という名には、まったく聞き覚えがなかったが、きょう、本名が判明した。
ご本人、久才(きゅうさい)敏雄氏の告別式の場でわかったのだった。
久才さんは、かつて北海道新聞文化部で美術担当記者として活動し、その後、文化部長も務めた(筆者の文化部在籍時)。
したがって、プライヴェイトな面でも書きたいことはあるのだが、それはここでは割愛する。
筆者の記憶に間違いがなければ、久才記者が活躍したのは、1977年頃だった。
それは、道内美術関係者の長年の悲願であった、北海道立近代美術館が完成した年である。
この頃、道新の紙面をにぎわせたのは、美術館オープンそのものについての記事よりも、館が道展(北海道美術協会)に対し、常設展示室を貸し出さないという方針を示したことによる論争であったようだ。
吉田豪介さんの名著「北海道の美術史」によると、道展は丸井今井百貨店や市民会館などを毎年使用していたが、出品数の増加に伴って会場が手狭となり、70年代に入ると会員はなんと30号に出品作品の大きさを制限されたという。
(団体公募展の出品作は油彩で普通80~120号ぐらいが多いので、30号はいかにも小さい。同じ時代、全道展も決して余裕があったわけではないが、道展ほど厳しい状態ではなかったという)
美術館建設運動をすすめてきた道展の関係者たちは、おそらく「美術館ができたあかつきには、会場難も解消されるだろう」と期待していただろう。
ところが、開館当時の倉田公裕館長は
「美術館は貸し画廊ではない」
として、入って左側にある常設展示室の開放を頑として認めなかった。
久才記者は、客観中立という新聞の原則にのっとりつつも、「地元密着を」と訴える道展サイドになんとなく同情的な書きぶりの記事を載せている。
また、同じ頃、気鋭の美術家、批評家として札幌で活躍していた木路毛五郎さんが創刊した美術誌「ザン」の座談会にも久才記者は登場している。
北海道新聞の美術記者として、一時代に名を刻んだ人だった。
15日発行された「21 ACT」最新号(155号)で「藤波久吾」さんは、展評の前に「“ホッとする”マチ、小樽」と題した短い随筆を寄せている。
思い出したのは、故郷の釧路ではなく、学生時代を過ごした小樽だったのかと思うと、不思議な感慨が湧く。
それにしても、入院の直前まで(8月末まで)、会場を回って作家に話を聞き、原稿を書いているのには驚く。
石狩市の葬儀会場の一角に置かれていた原稿は、手書きだった。
少しだけ私事に亘ることを許していただければ、筆者が最後に久才元部長と話をしたのは、札幌の平岸霊園で執り行われた通夜の帰路、平岸の居酒屋でふたりで酒を酌み交わしたときだったと記憶する。
何を話したのか、誰の通夜だったのか(美術関係者であることは間違いない)、いつのことだったか、全く記憶にない。
久才敏雄さんは10月20日、74歳で死去。
ご冥福をお祈りします。
数人のコラム執筆者が毎号、同ギャラリーで開かれた展覧会評などに健筆をふるっている。
執筆者のうち「藤波久吾」という名には、まったく聞き覚えがなかったが、きょう、本名が判明した。
ご本人、久才(きゅうさい)敏雄氏の告別式の場でわかったのだった。
久才さんは、かつて北海道新聞文化部で美術担当記者として活動し、その後、文化部長も務めた(筆者の文化部在籍時)。
したがって、プライヴェイトな面でも書きたいことはあるのだが、それはここでは割愛する。
筆者の記憶に間違いがなければ、久才記者が活躍したのは、1977年頃だった。
それは、道内美術関係者の長年の悲願であった、北海道立近代美術館が完成した年である。
この頃、道新の紙面をにぎわせたのは、美術館オープンそのものについての記事よりも、館が道展(北海道美術協会)に対し、常設展示室を貸し出さないという方針を示したことによる論争であったようだ。
吉田豪介さんの名著「北海道の美術史」によると、道展は丸井今井百貨店や市民会館などを毎年使用していたが、出品数の増加に伴って会場が手狭となり、70年代に入ると会員はなんと30号に出品作品の大きさを制限されたという。
(団体公募展の出品作は油彩で普通80~120号ぐらいが多いので、30号はいかにも小さい。同じ時代、全道展も決して余裕があったわけではないが、道展ほど厳しい状態ではなかったという)
美術館建設運動をすすめてきた道展の関係者たちは、おそらく「美術館ができたあかつきには、会場難も解消されるだろう」と期待していただろう。
ところが、開館当時の倉田公裕館長は
「美術館は貸し画廊ではない」
として、入って左側にある常設展示室の開放を頑として認めなかった。
久才記者は、客観中立という新聞の原則にのっとりつつも、「地元密着を」と訴える道展サイドになんとなく同情的な書きぶりの記事を載せている。
また、同じ頃、気鋭の美術家、批評家として札幌で活躍していた木路毛五郎さんが創刊した美術誌「ザン」の座談会にも久才記者は登場している。
北海道新聞の美術記者として、一時代に名を刻んだ人だった。
15日発行された「21 ACT」最新号(155号)で「藤波久吾」さんは、展評の前に「“ホッとする”マチ、小樽」と題した短い随筆を寄せている。
思い出したのは、故郷の釧路ではなく、学生時代を過ごした小樽だったのかと思うと、不思議な感慨が湧く。
それにしても、入院の直前まで(8月末まで)、会場を回って作家に話を聞き、原稿を書いているのには驚く。
石狩市の葬儀会場の一角に置かれていた原稿は、手書きだった。
少しだけ私事に亘ることを許していただければ、筆者が最後に久才元部長と話をしたのは、札幌の平岸霊園で執り行われた通夜の帰路、平岸の居酒屋でふたりで酒を酌み交わしたときだったと記憶する。
何を話したのか、誰の通夜だったのか(美術関係者であることは間違いない)、いつのことだったか、全く記憶にない。
久才敏雄さんは10月20日、74歳で死去。
ご冥福をお祈りします。
記事のタイトルを少し変えました。