(承前)
当エントリのテーマは、札幌芸術の森美術館で開催された「さっぽろ・昭和30年代」展の主人公である美術評論家なかがわ・つかさが「全道展解散せよ」などと激越な文章を寄稿した理由を探ることである。
この文章が載った北海タイムスの切り抜きは、図録にも載ってはいるが、小さすぎて文字が読めない。
筆者は当時のことをリアルタイムで知っているわけではない。
だから、なかがわが全道展に攻撃的だった本当の原因なんて、分かるはずがない。
ただ、筆者よりも若い世代の参考になるようなことがちょこっと書ければいいと思う。
「さっぽろ・昭和30年代」展を見た人は分かると思うが、当時の札幌は、現在のようにたくさんのギャラリーがあるわけではなく、展示会場は数カ所に限られていた。
希望者殺到のため、大丸画廊(スカイホールの前身)などは、本来1週間の会期を4日間に短縮して日程をまわしていたほどである。
そんな事情なので、画廊側も、実績のある作家を優先することもあり、若い人が個展やグループ展を簡単に開催できるような環境ではなかった。
したがって、作品を発表する場としては、団体公募展がとても重要であったのだ。
ところで、21世紀に入ってからの道展と全道展を見比べてみると、若さと一般的な認知度では道展に軍配が上がるのは、誰も否定できないだろう。
しかし、戦後すぐから、なかがわの時代あたりは、どうも全道展に勢いがあったようである。
全国区の画家、彫刻家は、中村善策らを除き、ほとんど全道展に移ってしまっていた。
しかも、全道展は主催に北海道新聞社がついていた。
今も全道展は、全道美術協会と北海道新聞社が主催しているが、道新の紙面で道展や新道展と差をつけることはない。
だが、発足当時は、全道展にかなり肩入れしており、評では道展に否定的な論調であったらしい。
また、1953~96年には道内各地を巡回していたが、当初は各地方版で大きく紹介し、竹岡和田男記者が地元出品者に目配りした展評を書いていた。そして、各地に赴いて出品者たちと交流していたという。
全道展の一部には
「道展はしょせん学校の先生たちの団体。こちらはプロの集団だ」
と、道展を見下す風潮もあったやに聞く。
筆者が思うに、なかがわ・つかさの心情には、そういう全道展に一種の高慢さのにおいを感じ取り、つい批判に傾くものがあったのではないだろうか。
あくまで推測の域を出ないが。
彼は、単に全道展を批判して、道展を称揚するといったような、狭量な党派意識で動くような人ではもちろんない。
この展覧会を組織した吉崎元章副館長が再三強調しているように、なかがわ・つかさの激越さは、北海道の美術への愛と水準向上を願う気持ちの裏返しであった。
でなければ、団体公募展の垣根を越えた交流を目指した北海道美術家まつりの開催に奔走したり、北海道美術家協議会の発足に尽くして機関誌「北美」を編集したりするはずがないのである。
とりあえず、札幌芸術の森美術館の「さっぽろ・昭和30年代 -美術評論家なかがわ・つかさが見た熱き時代-」展関連のエントリは、これでいったん打ち止めにしようと思う。
◆関連する文章
「全道展」と「道展」ってちがうの? という人のためのテキスト(2009年)
(30日昼、一部表記を手直ししました)
当エントリのテーマは、札幌芸術の森美術館で開催された「さっぽろ・昭和30年代」展の主人公である美術評論家なかがわ・つかさが「全道展解散せよ」などと激越な文章を寄稿した理由を探ることである。
この文章が載った北海タイムスの切り抜きは、図録にも載ってはいるが、小さすぎて文字が読めない。
筆者は当時のことをリアルタイムで知っているわけではない。
だから、なかがわが全道展に攻撃的だった本当の原因なんて、分かるはずがない。
ただ、筆者よりも若い世代の参考になるようなことがちょこっと書ければいいと思う。
「さっぽろ・昭和30年代」展を見た人は分かると思うが、当時の札幌は、現在のようにたくさんのギャラリーがあるわけではなく、展示会場は数カ所に限られていた。
希望者殺到のため、大丸画廊(スカイホールの前身)などは、本来1週間の会期を4日間に短縮して日程をまわしていたほどである。
そんな事情なので、画廊側も、実績のある作家を優先することもあり、若い人が個展やグループ展を簡単に開催できるような環境ではなかった。
したがって、作品を発表する場としては、団体公募展がとても重要であったのだ。
ところで、21世紀に入ってからの道展と全道展を見比べてみると、若さと一般的な認知度では道展に軍配が上がるのは、誰も否定できないだろう。
しかし、戦後すぐから、なかがわの時代あたりは、どうも全道展に勢いがあったようである。
全国区の画家、彫刻家は、中村善策らを除き、ほとんど全道展に移ってしまっていた。
しかも、全道展は主催に北海道新聞社がついていた。
今も全道展は、全道美術協会と北海道新聞社が主催しているが、道新の紙面で道展や新道展と差をつけることはない。
だが、発足当時は、全道展にかなり肩入れしており、評では道展に否定的な論調であったらしい。
また、1953~96年には道内各地を巡回していたが、当初は各地方版で大きく紹介し、竹岡和田男記者が地元出品者に目配りした展評を書いていた。そして、各地に赴いて出品者たちと交流していたという。
全道展の一部には
「道展はしょせん学校の先生たちの団体。こちらはプロの集団だ」
と、道展を見下す風潮もあったやに聞く。
筆者が思うに、なかがわ・つかさの心情には、そういう全道展に一種の高慢さのにおいを感じ取り、つい批判に傾くものがあったのではないだろうか。
あくまで推測の域を出ないが。
彼は、単に全道展を批判して、道展を称揚するといったような、狭量な党派意識で動くような人ではもちろんない。
この展覧会を組織した吉崎元章副館長が再三強調しているように、なかがわ・つかさの激越さは、北海道の美術への愛と水準向上を願う気持ちの裏返しであった。
でなければ、団体公募展の垣根を越えた交流を目指した北海道美術家まつりの開催に奔走したり、北海道美術家協議会の発足に尽くして機関誌「北美」を編集したりするはずがないのである。
とりあえず、札幌芸術の森美術館の「さっぽろ・昭和30年代 -美術評論家なかがわ・つかさが見た熱き時代-」展関連のエントリは、これでいったん打ち止めにしようと思う。
◆関連する文章
「全道展」と「道展」ってちがうの? という人のためのテキスト(2009年)
(30日昼、一部表記を手直ししました)
ためになるテキストありがとうございます。
公募展の成り立ちを全然知らないし、なかがわつかさが美術愛にあふれながら、
非常に攻撃的なのを不思議に思っていました。
展示会場が少なく、出品が難しかったのは展示を見て何となく分かりました。
楽しく読ませて頂きました。
昔の新聞の図版はほんとうに粗い。
まあ、当時の技術としては
それが精一杯だったのかも
しれません。
今も新聞を印刷する際には
線数を落としていますが、
昔は50もなかったかな?
更にドット潰れを避ける為
加工してたかも。
当時の縮小版を見ると、
新聞自体を紙版にして
使っている様です。
あまり美術とは関係ない
ハナシですみません。
それにしても冬になると
ギャラリーに足が向かなく
なります。プルプル、、
あくまで推測ではありますが、書いてみました。
重箱の隅をつつくようで恐縮ですが、少なくても札幌では、新聞各紙の縮刷版が出たのは1960年代後半ではないかと。
なかがわの時代にはまだ縮刷版がなく、過去の新聞を読むだけでも大変だったと思います。
今回の展覧会に使われている新聞紙面はすべて、マイクロフィルムから起こしたものですね。
北海タイムスのマイクロフィルムって、図書館にあるのかな?
新聞の写真がグレードアップしたのは、ほんの最近ですね。
道新も昨年からモノクロ写真のドットがずいぶん細かくなりました。
最後に見たのは何年前かなあ?
ネットで蔵書検索をしても、
よくわかりませんでした。
フィルムの耐年性を考えると
いつまでもフィルム保存は、
まずいですねえ。
椎名次郎さんのイラストが
表紙を飾る札幌人も次回で
休刊となります。
丁寧な造りと、読ませる文章で
毎号楽しみにしていただけに、
とても残念です。
尚、札幌人に載せられなかった
未掲載分や、抜粋分を網羅した
単行本が、一冊になってこの度
えー、○○○さんのところから
出るそうです。
↓札幌人ホームページ
http://www.hsc.or.jp/sapporojin/
マイクロフィルムの寿命ってそんなに短いんですか?
酸性紙よりはマシなような気がしてましたが…。