地元の図書館に珍しい本が開架で並んでいたので、借りてきました。
本の話をする前に、かんたんに「戦争画」についておさらいをしておきます。
1930年代後半から45年の敗戦までの間、戦地での日本軍の活躍や死闘といった、戦争に題材を得た絵画が日本でたくさん描かれました。軍人の彫刻もつくられました。
藤田嗣治をはじめ、宮本三郎や川端竜子、鶴田吾郎、小磯良平といった多くの画家が取り組んだほか、直接は戦争を描かなくても、富士山などの国粋的な題材の日本画を売ってその多額の代金を軍に寄付した横山大観のような画家もいました。
陸海軍や新聞社は「聖戦美術展」「大東亜戦争美術展」「陸軍美術展」といった展覧会を開いたり、画家を戦地に派遣させたりして後押ししました。
43年以降は一般の美術展の開催はきびしく制限されて、各団体公募展などは事実上の解散状態になりました。さらに、絵の具は配給となりました。
いうまでもなく、日本のおもな都市は空襲で焼け野原となり、45年に無残な敗戦で、戦争は幕を閉じました。
占領軍は、戦意高揚の目的で描かれた絵画を回収し、しばらくの間、東京都美術館の一部の部屋に保管していました。
戦争画を描いた画家の戦争責任を問う声も一部に起こり、批判の矢面に立たされた藤田嗣治はフランスに帰化して、二度と故国に帰ることはありませんでした。
米軍の集めた戦争画は「戦利品」という名義で米国へと持ち去られました。
1960年代後半になり、米国オハイオ州の空軍博物館などに戦争画が放置されていることがわかりました。
その際にフォトジャーナリスト中川市郎氏が撮影した絵画の写真が、今回の画集のもとになっているものと思われます。
これらの再取材の際、TBSが報道して多くの人が知るところとなり、中曽根康弘氏(のちの首相)らが米国に返還を掛け合い、すったもんだのあげく、「無期限貸与」というかたちで東京国立近代美術館に戻ってくることになったのです。
しかし、公開にあたっても賛否両論が激しく、一気に多数の戦争画を展示する機会はなかなか巡ってきませんでした。藤田嗣治の戦争画が展覧会に出品されるようになったのも近年のことです。
さて「太平洋戦争名画集」です。
この本は書誌的に、変わったところがたくさんあります。
イ)題名
「平」の文字だけが正字(旧字体)です。
つまり「干」の横棒の間が「八」のようになっています。
「戦」「争」「画」の漢字は戦後の新しい字体です。つまり、戰、爭、畫ではないのです。
(太、洋、名、集が、戦前も戦後も同じ字体であることは、いうまでもありません)
表紙に箔押しで英語の題が併記されています。
the pacific war art collection
もっとも「太平洋戦争」というのは「大東亜戦争(大東亞戰爭)」を戦後に言い換えたもので、欧米ではこういう呼び方はあまりせず、普通に「World War II」と呼称するそうです。
ロ)著者
この本には著者名が表示されていません。珍しい。
ハ)扉
昔の自装本など表紙に文字が書かれていない書物はたくさんありますが、扉が無い本はまずありません。
ところが、この本は、扉にあたるページに
「太平洋戦争名画集 秀作観賞」
とあり、猪熊弦一郎、伊原宇三郎ら10人の名が記されています。
どうも、全体の扉が来るべきところに、口絵の扉があるようなのです。
以後15ページにわたり、カラーグラビアが続きますが、うち1ページは上島長健(日動画廊企画部長)による「戦争記録画の採点」という随想になっています。
そのあとに「太平洋戦争名画集」とだけ書かれたページとなり(こちらの「平」は新字)、もう1枚めくると、見開きで黒地に白い大きな文字で「太平洋戦争名画集」(「平」は正字)と書かれているのです。
大作映画がもったいぶって、なかなかオープニングに入らないのと、よく似ています。
ニ)編集顧問
黒地見開きページには「編集顧問」として次の名が連なっています。
石原慎太郎
伊原宇三郎
小汀利得
今東光
島津国臣
田邊茂一
田村泰次郎
堤清二
中川市郎
中曽根康弘
西村晃
長谷川仁
船坂弘
森下泰
さらに
出版企画 山本一哉
協力 株式会社東京放送
株式会社世界文化社
と続きます。
百科事典や文学全集などで、当時の知識人や大物作家を「監修」として招いた例は日本の出版史上数多くみられますが、「編集顧問」の名を14人も記した出版企画というのは初めて見ました。
政治家、画家、小説家、経済人、画廊関係者とさまざま(肩書は書いていない)で、このうち伊原と中川は回想録を寄せ、中川は絵の撮影者でもありますが、あとの人たちは具体的に編集にどうかかわったのかさっぱりわかりません。推測ですが、権威付けに名前をならべたというにおいがします。
ちなみに「山本一哉」は奥付の「発行者」にも登場するので、単にノーベル書房の社長か編集長なのではないかと思います。
ホ)発行年月日
奥付にはつぎのようにあります。
昭和42年12月8日第1刷発行
昭和52年4月18日発 行
もう、意味がわかりません。
改版したのならそう書いてほしいし。
昭和52年は第2刷ではないのでしょうか。
ヘ)価格
定価28000円。
総クロス装で高級感を出していますが、べらぼうな高さだと思います。
1977年。札幌の市バスが片道90円、岩波新書が280円だったと記憶しています。当時はさらに高価に感じられたことでしょう。
やっと、本の中身に入りますが、こちらもいろいろふしぎな点があります。
まず、現在知られている題と異なる例が散見されること。
たとえば、藤田嗣治の戦争末期の大作「サイパン島玉砕」は、ふつう「サイパン島同胞臣節を全うす」という題で知られていると思います。
拡大図を二つもつけている力の入れようですが、引き延ばして粒子が粗く、現在の印刷技術水準からするとかなり見劣りします。
藤田については「ソロモン海域に於ける米兵の末路」は「ソロモン海戦における米兵の最後」、「○○部隊の死闘―ニューギニア戦線」は「ニューギニア戦線安田分隊の死闘」、「アッツ島玉砕」は「アッツ島最後の攻撃」と、それぞれ現在の題とは異なる題がついています。
撮影時に英語から直訳したのかもしれません。
表紙にも採用されているのは、1943年の「肉迫」(原題ママ)。
「6号 月光荘提供」
とただし書きがついています。
しかし、この「月光荘」というのが、なんなのか、説明がありません。
この作品は筆者は一度も見たことがなく、国立美術館にある作でもなく、謎がのこります。
この画集では、寺内萬治郎「最後の御前会議」にも「月光荘提供」と表示されています。
また、川端実「ボルネオ油田地帯の攻撃」には「光文社提供」とあります。
光文社は出版社なんでしょうけど…。
いずれの絵も初見です。
題だけではありません。作者名は明らかな誤記があります。
「重慶爆撃」「アッツ島空爆」の作者が
小笠原修
となっているのには、びっくりしました。
もちろんこれは、東京美術学校を出て、美術文化協会を舞台に活動しながら、戦後は郷里の北海道・後志管内倶知安町に引っ込んで、絵筆を執り続けた
小川原脩
です。
小川原脩の名は、モノクロ図版でも、絵の隅にサインされているのがはっきりと読み取れるので、こんな誤植が2カ所(巻末の目録を含めたら4カ所)もあるのは、不思議としかいいようがありません。
あるいは、これはあくまで想像ですが、小川原さんは北海道で、この画集のことを知って
「ああ、これもオレも中央画壇からはすっかり忘れられた。これでいいんだ」
と内心でつぶやいたかもしれません。
100点のうち59点がカラー。
昔の画集では、モノクロが大半ということは、めずらしくありません。
1点ずつに解説文がついていますが、作品についてはまったく触れず(構図がどうとか、画材や絵の状態などについての記述は皆無です)、ほとんど戦況に関する話に終始しています。
画家の略歴は別に掲載されています。
おもなところでは
宮本三郎「香港ニコルソン附近の激戦」
川端龍子「HONG-HO 河進攻前に祈る将校」「南十字星下の敵前上陸」
宮本三郎「北京NANG-EN の攻撃」「山下・パーシバル両司令官会見」
藤田嗣治「漢口突入の図」「ノモンハン・ハルハ河での戦車占領」「南昌空軍基地爆撃の図」「ブキテマ高地」「レイテ島米軍航空基地攻撃」
石井柏亭「満洲里国境警備」
清水登之「前線の日本軍参謀」
鹿子木孟郎「南京開場」
橋本関雪「12月8日の黄浦江上」
堂本印象「霧」
小磯良平「ビルマ独立式典」「カリジャチ会見図」
安田靫彦「山本五十六元帥像」
伊原宇三郎「ビルマ大統領」
など。
北海道関係では、山口蓬春「香港島最後の総攻撃」があります。
めずらしいところでは、巻末に丸木位里・俊「原爆の図」から2点収録されています。
中村研一「コタバル」、藤田「シンガポール最後の日」は、「絵が見つからず撮影できなかった」とあるのも、注目されるところです。
伊原のほか、何人かが随想を寄せています。
わりと無邪気で、侵略される側のことは誰も考えていないのは、あの世代なので「まあ、そうだよな」と思います。名前も知らない評論家が生硬な批評を書いていました。
注目は岡本喜八の文章で、軍の学校にいたとき、すぐ近くに爆弾が落ちて級友が死んだ話を書いています。こういう、間一髪で死をまぬかれた人の体験談は、昔たくさん読んだものです。
いずれにしても、この分野でまとまった知見を得るためには、国書刊行会や平凡社(別冊太陽)の本があるので、これは、専門の研究者以外は大枚はたいて買う画集ではないと思います。
版元はすでに倒産しているので、新刊の入手はできませんが。
1) 戦争画について
本の話をする前に、かんたんに「戦争画」についておさらいをしておきます。
1930年代後半から45年の敗戦までの間、戦地での日本軍の活躍や死闘といった、戦争に題材を得た絵画が日本でたくさん描かれました。軍人の彫刻もつくられました。
藤田嗣治をはじめ、宮本三郎や川端竜子、鶴田吾郎、小磯良平といった多くの画家が取り組んだほか、直接は戦争を描かなくても、富士山などの国粋的な題材の日本画を売ってその多額の代金を軍に寄付した横山大観のような画家もいました。
陸海軍や新聞社は「聖戦美術展」「大東亜戦争美術展」「陸軍美術展」といった展覧会を開いたり、画家を戦地に派遣させたりして後押ししました。
43年以降は一般の美術展の開催はきびしく制限されて、各団体公募展などは事実上の解散状態になりました。さらに、絵の具は配給となりました。
いうまでもなく、日本のおもな都市は空襲で焼け野原となり、45年に無残な敗戦で、戦争は幕を閉じました。
占領軍は、戦意高揚の目的で描かれた絵画を回収し、しばらくの間、東京都美術館の一部の部屋に保管していました。
戦争画を描いた画家の戦争責任を問う声も一部に起こり、批判の矢面に立たされた藤田嗣治はフランスに帰化して、二度と故国に帰ることはありませんでした。
米軍の集めた戦争画は「戦利品」という名義で米国へと持ち去られました。
1960年代後半になり、米国オハイオ州の空軍博物館などに戦争画が放置されていることがわかりました。
その際にフォトジャーナリスト中川市郎氏が撮影した絵画の写真が、今回の画集のもとになっているものと思われます。
これらの再取材の際、TBSが報道して多くの人が知るところとなり、中曽根康弘氏(のちの首相)らが米国に返還を掛け合い、すったもんだのあげく、「無期限貸与」というかたちで東京国立近代美術館に戻ってくることになったのです。
しかし、公開にあたっても賛否両論が激しく、一気に多数の戦争画を展示する機会はなかなか巡ってきませんでした。藤田嗣治の戦争画が展覧会に出品されるようになったのも近年のことです。
2) 本の体裁について
さて「太平洋戦争名画集」です。
この本は書誌的に、変わったところがたくさんあります。
イ)題名
「平」の文字だけが正字(旧字体)です。
つまり「干」の横棒の間が「八」のようになっています。
「戦」「争」「画」の漢字は戦後の新しい字体です。つまり、戰、爭、畫ではないのです。
(太、洋、名、集が、戦前も戦後も同じ字体であることは、いうまでもありません)
表紙に箔押しで英語の題が併記されています。
the pacific war art collection
もっとも「太平洋戦争」というのは「大東亜戦争(大東亞戰爭)」を戦後に言い換えたもので、欧米ではこういう呼び方はあまりせず、普通に「World War II」と呼称するそうです。
ロ)著者
この本には著者名が表示されていません。珍しい。
ハ)扉
昔の自装本など表紙に文字が書かれていない書物はたくさんありますが、扉が無い本はまずありません。
ところが、この本は、扉にあたるページに
「太平洋戦争名画集 秀作観賞」
とあり、猪熊弦一郎、伊原宇三郎ら10人の名が記されています。
どうも、全体の扉が来るべきところに、口絵の扉があるようなのです。
以後15ページにわたり、カラーグラビアが続きますが、うち1ページは上島長健(日動画廊企画部長)による「戦争記録画の採点」という随想になっています。
そのあとに「太平洋戦争名画集」とだけ書かれたページとなり(こちらの「平」は新字)、もう1枚めくると、見開きで黒地に白い大きな文字で「太平洋戦争名画集」(「平」は正字)と書かれているのです。
大作映画がもったいぶって、なかなかオープニングに入らないのと、よく似ています。
ニ)編集顧問
黒地見開きページには「編集顧問」として次の名が連なっています。
石原慎太郎
伊原宇三郎
小汀利得
今東光
島津国臣
田邊茂一
田村泰次郎
堤清二
中川市郎
中曽根康弘
西村晃
長谷川仁
船坂弘
森下泰
さらに
出版企画 山本一哉
協力 株式会社東京放送
株式会社世界文化社
と続きます。
百科事典や文学全集などで、当時の知識人や大物作家を「監修」として招いた例は日本の出版史上数多くみられますが、「編集顧問」の名を14人も記した出版企画というのは初めて見ました。
政治家、画家、小説家、経済人、画廊関係者とさまざま(肩書は書いていない)で、このうち伊原と中川は回想録を寄せ、中川は絵の撮影者でもありますが、あとの人たちは具体的に編集にどうかかわったのかさっぱりわかりません。推測ですが、権威付けに名前をならべたというにおいがします。
ちなみに「山本一哉」は奥付の「発行者」にも登場するので、単にノーベル書房の社長か編集長なのではないかと思います。
ホ)発行年月日
奥付にはつぎのようにあります。
昭和42年12月8日第1刷発行
昭和52年4月18日発 行
もう、意味がわかりません。
改版したのならそう書いてほしいし。
昭和52年は第2刷ではないのでしょうか。
ヘ)価格
定価28000円。
総クロス装で高級感を出していますが、べらぼうな高さだと思います。
1977年。札幌の市バスが片道90円、岩波新書が280円だったと記憶しています。当時はさらに高価に感じられたことでしょう。
3) 本の中身
やっと、本の中身に入りますが、こちらもいろいろふしぎな点があります。
まず、現在知られている題と異なる例が散見されること。
たとえば、藤田嗣治の戦争末期の大作「サイパン島玉砕」は、ふつう「サイパン島同胞臣節を全うす」という題で知られていると思います。
拡大図を二つもつけている力の入れようですが、引き延ばして粒子が粗く、現在の印刷技術水準からするとかなり見劣りします。
藤田については「ソロモン海域に於ける米兵の末路」は「ソロモン海戦における米兵の最後」、「○○部隊の死闘―ニューギニア戦線」は「ニューギニア戦線安田分隊の死闘」、「アッツ島玉砕」は「アッツ島最後の攻撃」と、それぞれ現在の題とは異なる題がついています。
撮影時に英語から直訳したのかもしれません。
表紙にも採用されているのは、1943年の「肉迫」(原題ママ)。
「6号 月光荘提供」
とただし書きがついています。
しかし、この「月光荘」というのが、なんなのか、説明がありません。
この作品は筆者は一度も見たことがなく、国立美術館にある作でもなく、謎がのこります。
この画集では、寺内萬治郎「最後の御前会議」にも「月光荘提供」と表示されています。
また、川端実「ボルネオ油田地帯の攻撃」には「光文社提供」とあります。
光文社は出版社なんでしょうけど…。
いずれの絵も初見です。
題だけではありません。作者名は明らかな誤記があります。
「重慶爆撃」「アッツ島空爆」の作者が
小笠原修
となっているのには、びっくりしました。
もちろんこれは、東京美術学校を出て、美術文化協会を舞台に活動しながら、戦後は郷里の北海道・後志管内倶知安町に引っ込んで、絵筆を執り続けた
小川原脩
です。
小川原脩の名は、モノクロ図版でも、絵の隅にサインされているのがはっきりと読み取れるので、こんな誤植が2カ所(巻末の目録を含めたら4カ所)もあるのは、不思議としかいいようがありません。
あるいは、これはあくまで想像ですが、小川原さんは北海道で、この画集のことを知って
「ああ、これもオレも中央画壇からはすっかり忘れられた。これでいいんだ」
と内心でつぶやいたかもしれません。
100点のうち59点がカラー。
昔の画集では、モノクロが大半ということは、めずらしくありません。
1点ずつに解説文がついていますが、作品についてはまったく触れず(構図がどうとか、画材や絵の状態などについての記述は皆無です)、ほとんど戦況に関する話に終始しています。
画家の略歴は別に掲載されています。
おもなところでは
宮本三郎「香港ニコルソン附近の激戦」
川端龍子「HONG-HO 河進攻前に祈る将校」「南十字星下の敵前上陸」
宮本三郎「北京NANG-EN の攻撃」「山下・パーシバル両司令官会見」
藤田嗣治「漢口突入の図」「ノモンハン・ハルハ河での戦車占領」「南昌空軍基地爆撃の図」「ブキテマ高地」「レイテ島米軍航空基地攻撃」
石井柏亭「満洲里国境警備」
清水登之「前線の日本軍参謀」
鹿子木孟郎「南京開場」
橋本関雪「12月8日の黄浦江上」
堂本印象「霧」
小磯良平「ビルマ独立式典」「カリジャチ会見図」
安田靫彦「山本五十六元帥像」
伊原宇三郎「ビルマ大統領」
など。
北海道関係では、山口蓬春「香港島最後の総攻撃」があります。
めずらしいところでは、巻末に丸木位里・俊「原爆の図」から2点収録されています。
中村研一「コタバル」、藤田「シンガポール最後の日」は、「絵が見つからず撮影できなかった」とあるのも、注目されるところです。
伊原のほか、何人かが随想を寄せています。
わりと無邪気で、侵略される側のことは誰も考えていないのは、あの世代なので「まあ、そうだよな」と思います。名前も知らない評論家が生硬な批評を書いていました。
注目は岡本喜八の文章で、軍の学校にいたとき、すぐ近くに爆弾が落ちて級友が死んだ話を書いています。こういう、間一髪で死をまぬかれた人の体験談は、昔たくさん読んだものです。
いずれにしても、この分野でまとまった知見を得るためには、国書刊行会や平凡社(別冊太陽)の本があるので、これは、専門の研究者以外は大枚はたいて買う画集ではないと思います。
版元はすでに倒産しているので、新刊の入手はできませんが。