北海道美術ネット別館

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岡沼淳一さんのこと

2018年10月02日 11時11分11秒 | つれづれ日録
 「岡沼淳一工房展」が10月8日まで十勝管内音更町にある岡沼さんのアトリエで開かれています(詳しくはこちらの記事)。
 リーフレットには筆者が拙文を書きました。
 ただ、最初に送った文章は、長すぎて掲載できませんでした。
 せっかくなので、ブログに全文を引いておきます。
 実際に掲載された短縮バージョンは、後段に載せておきます。

 いずれも、読みやすくするために、段落が変わるごとにさらに1行改行しています。

 筆者は今週末、参ります。
 みなさんもどうぞ。

 全道展などで岡沼淳一さんの彫刻を見るたびに「睥睨(へいげい)する」という言葉を思い出す。

 単純な理由で、ほとんどの場合、会場で一番背が高い作品だからである。ほかの作品をぐるりと見渡しているように感じるのだ。

 しかし「睥睨」という語に潜む「威圧的」なニュアンスはほとんどない。直線と曲線を巧みに組み合わせ、大きさのわりには軽快さが前面に出ているからだ。

 いま「直線と曲線」と書いた。岡沼さんの彫刻は、対立し合う要素を共存させているのが特徴だ。量感と軽快さもそうだし、動感と静止した感覚もそうだろう。表面についても、粗さを残した部分と平滑な部分がある。

 ともすれば矛盾する事柄だらけなのに、岡沼さんはそれらを統合させている。そして、しゃかりきになってそれらを力ずくでなしとげているといったふうではない。少なくとも作品からは、苦心惨憺の跡はあまり伝わってこず、ごくスムーズに仕上げているような印象を受ける。

 かといって、作品から才気が漂い、「どうだ」とふんぞり返っている構えでもないのだ。たとえて言うなら、風力は強いがさわやかな、十勝の風のようなたたずまいなのだといえそうだ。いや、河川敷の埋もれ木を素材にしているのだから、風というよりも十勝川水系の川の流れといったほうがいいのかもしれない。



 いま「十勝の風」と書いたが、岡沼さんが自然のモティーフをそのまま単純化して形象としているわけではもちろんあるまい。いくら十勝に道路や防風林、畑の区画といった直線が多いからといって、そこまで簡単なものではないだろう。おそらく岡沼さんの頭の中にまず存在するのは、構造(絵画で言えば構図)への意思であろう。

 ここで思い出すのが、岡沼さんとジャンルを超えて親しかった画家で全道展会員の故遠藤ミマンさんである。ミマンさんは苫小牧美術界の中心として多くの後進を育てたが、岡沼さんと何度か札幌時計台ギャラリーで二人展を開いていた。

 ミマンさんの絵は、あたたかな色彩とやわらかなマチエールで、一見甘やかで叙情的にも見えるのだが、実際には、さまざまな線を引いては消してを繰り返して、厳密な幾何学的計算の末に作られたものだった。苫小牧での回顧展で創作ノートが展示されていたが、「構図の鬼」とでもいうべき苦闘の跡に、思わず息をのんだ記憶がある。

 ひるがえって岡沼さんはどうだろう。おそらく、ミマンさんのように、スケッチブックを相手に線を引いては消し、消しては引いているのだろう。ただ、ご本人によると
「若い頃は、自分のイメージに合う材料を探してた。自分のイメージ8に対し、木の材質2ぐらいだったと思う。いまは4対6ぐらいかな。出合った材料を長い時間眺めて、それからとりかかるんだ」
とのこと。眺めている間、素材となる木の声に耳を澄ませているのだろう。木を自らの意思の下に制圧するのではなく、木の存在をまず肯定する。そんなゆとりのような情感が、近作からは伝わってくる。とはいえ「もの派」のように、素材をただ提示するのではなく、岡沼さんのてわざが、そこに個性として刻印されていくのだ。



 道立帯広美術館での「神田日勝と道東の画家たち & 岡沼淳一・木彫の世界」のにあわせ、岡沼さんがアトリエ展を開くという。

 この彫刻家の、新旧の作品を一度に見ることのできる滅多にない好機とあって、楽しみにしている。そこでおそらく、「かたち」と闘い、あらがいながらも、「かたち」とたわむれ、ともに息をする作者の魂のありかと、出会えるような予感がするからだ。

(梁井朗=ブログ「北海道美術ネット別館」主宰)  



 以下が実際に掲載された文章です。

 全道展などで岡沼淳一さんの彫刻を見る度に「睥睨(へいげい)する」という語を思い出す。単純な理由で、たいてい会場で一番背が高い作品だからだ。ほかの作品をぐるりと見渡しているように感じるのだ。しかし「睥睨」という語に潜む「威圧的」な印象はない。直線と曲線とを巧みに組み合わせ、大きさの割には軽快さが前面に出ているからだ。

 「直線と曲線」だけではない。岡沼さんの彫刻は、対立し合う要素を共存させているのが特徴だ。量感と軽快さもそうだし、動感と静止した感覚もそうだろう。表面についても粗さを残した部分と平滑な部分がある。

 矛盾する事柄だらけなのに、岡沼さんはそれらを統合させている。それも、力ずくではなく、ごくスムーズに。才能でねじふせている構えでもない。例えて言えば、風力は強いが爽やかな、十勝の風のようなたたずまいか。いや、河川敷の埋もれ木を素材にしているのだから、十勝川水系の川の流れのようだといったほうがいいかもしれない。

 岡沼さんが自然のモティーフをそのまま単純化しているわけもなく、頭の中にはまず構造(絵画で言えば構図)への意思が存在するだろう。ここで思い出すのが苫小牧の画家で、岡沼さんと何度か札幌時計台ギャラリーで二人展を開いていた故遠藤ミマンさんである。

 ミマンさんの絵は、温かで豊かな色彩とマチエールで、一見叙情的にも見えるのだが、実際は、さまざまな線を引いては消しを繰り返し、厳密な幾何学的計算の末に作られたものだった。苫小牧での回顧展で創作ノートを見ことがあるが「構図の鬼」とでもいうべき苦闘の跡に思わず息をのんだ記憶がある。

 想像するに岡沼さんも、下書きの線を引いては消し、消しては引いて、かたちを探しているのに違いない。「若い頃は、自分のイメージに合う材料を探してた。自分のイメージ8に対し、木の材質2ぐらいだったと思う。今は4対6ぐらいかな」と岡沼さんは言う。素材を眺め、木の声に耳を澄ませているのだろう。木を自らの意思の下に制圧するのではなく、木の存在をひとまず肯定し、そこから対話しながら形にしていく。そんなゆとりのような情感が近作からは伝わってくる。

(梁井朗・「北海道美術ネット別館」主宰)

 


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