地図のエッセーで知られる、札幌在住の堀淳一さんが亡くなった。91歳だった。
二眼レフカメラによる写真の腕もくろうとはだしだったが、ここで書くのはアートとは関係ないことです。
堀淳一さんとは一度だけお会いしたことがある。
会社の仕事がらみだったはずだが、くわしくは覚えていない。
ご自宅に電話して
「突然お電話を差し上げてすみません」
というと
「いや~、電話というのは突然来るもんですよ。ははは」
と大笑いされた。
毎日新聞北海道支社に近いそば屋を指定され、そこで飲みながら話を聞いた。
筆者も地図マニアであるから、お聞きしたいことはいろいろあったが、その後は残念ながら一度もお会いする機会はなかった。
それにしても、と思う。
あちこちの分野でその人がいなかったら、その世界のあり方や見方が変わることがなかっただろうという人がいる。
堀さんは間違いなく、そういう人だった。
彼がいなかったら、旅とは名所旧跡を訪ねていくものにとどまっていたのではないか。そして、地形図の上で旧街道をたどったり廃線の跡を歩く旅に出たりする人はこれほど多くなかったのではないか。地図と旅に、従来なかった楽しみ方を拡充したのが堀淳一さんだったのだ。
たとえば、鉄道趣味に、乗って楽しむだけでなく、すでに失われた線路の痕跡をたどって歩くというやり方があるなんて、堀さんが広めたといって差しつかえないだろう。
堀淳一さんは、名所には見向きもせず、雑踏を遠ざけ、目立つもののこれといってない湖沼や湿原を愛した。
その筆で魅力を知って足を伸ばした、十勝の湧洞沼などの場所も少なくない。
河川争奪、溶岩丘など、私たちは「ブラタモリ」のはるか前から、地形を読む楽しみを堀さんから教わっていたのだ。
(道内外を問わず海外も含め、あんな不便な場所にばかり行っていたのに、運転免許を持っておられなかったのか、自家用車を運転する場面が文章に出てこない。公共交通機関を活用し、知人の車に同乗するなどもしていた。←このくだり、文章を手直ししました)
もうひとつ、堀さんの生き方で印象深いのは、北大の物理の先生だったのに、エッセイスト・クラブ賞を得た数年後の45歳の頃にきっぱりと辞め、地図と旅を巡る物書きに専念したことだ。
堀さんはこれを「人生二毛作」と称していた。
冒頭の本は、筆者の自宅にあるもの(のうちの何冊か)で、著書の数はこの数倍に上るだろう。さっぽろ文庫に寄せた随筆などにも多くを教えられた。
二毛作。
最高の人生かよ、と言いたくなってくる。
ご冥福をお祈りします。
二眼レフカメラによる写真の腕もくろうとはだしだったが、ここで書くのはアートとは関係ないことです。
堀淳一さんとは一度だけお会いしたことがある。
会社の仕事がらみだったはずだが、くわしくは覚えていない。
ご自宅に電話して
「突然お電話を差し上げてすみません」
というと
「いや~、電話というのは突然来るもんですよ。ははは」
と大笑いされた。
毎日新聞北海道支社に近いそば屋を指定され、そこで飲みながら話を聞いた。
筆者も地図マニアであるから、お聞きしたいことはいろいろあったが、その後は残念ながら一度もお会いする機会はなかった。
それにしても、と思う。
あちこちの分野でその人がいなかったら、その世界のあり方や見方が変わることがなかっただろうという人がいる。
堀さんは間違いなく、そういう人だった。
彼がいなかったら、旅とは名所旧跡を訪ねていくものにとどまっていたのではないか。そして、地形図の上で旧街道をたどったり廃線の跡を歩く旅に出たりする人はこれほど多くなかったのではないか。地図と旅に、従来なかった楽しみ方を拡充したのが堀淳一さんだったのだ。
たとえば、鉄道趣味に、乗って楽しむだけでなく、すでに失われた線路の痕跡をたどって歩くというやり方があるなんて、堀さんが広めたといって差しつかえないだろう。
堀淳一さんは、名所には見向きもせず、雑踏を遠ざけ、目立つもののこれといってない湖沼や湿原を愛した。
その筆で魅力を知って足を伸ばした、十勝の湧洞沼などの場所も少なくない。
河川争奪、溶岩丘など、私たちは「ブラタモリ」のはるか前から、地形を読む楽しみを堀さんから教わっていたのだ。
(道内外を問わず海外も含め、あんな不便な場所にばかり行っていたのに、運転免許を持っておられなかったのか、自家用車を運転する場面が文章に出てこない。公共交通機関を活用し、知人の車に同乗するなどもしていた。←このくだり、文章を手直ししました)
もうひとつ、堀さんの生き方で印象深いのは、北大の物理の先生だったのに、エッセイスト・クラブ賞を得た数年後の45歳の頃にきっぱりと辞め、地図と旅を巡る物書きに専念したことだ。
堀さんはこれを「人生二毛作」と称していた。
冒頭の本は、筆者の自宅にあるもの(のうちの何冊か)で、著書の数はこの数倍に上るだろう。さっぽろ文庫に寄せた随筆などにも多くを教えられた。
二毛作。
最高の人生かよ、と言いたくなってくる。
ご冥福をお祈りします。
新刊出たときにほかの店員の方がサインしていただいていました。
現場を実際に歩いて確認されるスタイルは、ネットの無い時代にとても参考になりました。
昭和が遠くなりましたね。
浅野さんがカメラ店でバイトしてたという話は初めて聞きました。
堀さんは、地図と現場、両方の魅力を教えてくれました。近く、最後の新刊が出るらしいです。