これまで道内で開かれた、かな書の展覧会ではおそらく最大規模ではないでしょうか。
札幌拠点で「わか葉会」を主宰し、現役のかな書家では道内を代表するひとりといえる阿部和加子さん(読売書法会会員、北海道書道展理事長)が、松本春子の次に師事した神戸の書家山口南艸の作品約50点に加え、南艸が創設した草心会の幹部役員8人の特別出品、それに「わか葉会」「草心会北海道支部」の133人が出品しています。
貸し館ですが、無料というのがありがたい。
筆者は書には疎いですが、これまで北海道書道展などで見た阿部さんの書の元ネタ(というと言葉は悪いですが)はこれか~! と思いました。
たおやかで、連綿を駆使した帖幅の作ももちろんあるのですが、それとは別の展覧会芸術としての南艸の書は、連綿をあまり行わず、散らしに独特の癖があり(たとえば、画像左側の屛風で、万葉集を書いた左から2葉目では、2行目が1行目のすぐ左下に付されています)、墨の潤渇を生かした勢いのある筆遣いです。
これらの挙げた特色は、まさに阿部和加子さんの作品の特徴でもあるのです。
といって、むろん、2人の書風がまったく同一ということではありません。
師は、童謡などを題材にした一部の調和体的な作を別にすれば、およそ可読性などを考えていない自由な変体仮名を次々と繰り出していますが、弟子は、とりわけ漢字はオーソドックスな行書に寄せた書体が多く、また直線を生かした剛直さでも師匠を上回っているように感じました。
南艸ももともと漢字書家だっただけに、かなだけではないオールラウンドな力を発揮していることが伝わってきて、その幅広さは弟子にじゅうぶん引き継がれているようです。
そして南艸は、古今集など王朝和歌ではなく、万葉集と近代短歌を多く書いています。
これは、臨書ではなく、独自の「展覧会芸術としてのかな書」を創ろうとする作者の意欲を感じるのです。
ただ、これは読売書法会の他の書家にもいえることですが、一字一句に心血を注いでいる歌人や詩人の意志をあまりにも無視しているのが、どうもひっかかるんですよね。
たとえば、筆者は個人的には、会津八一の書も短歌もあまり好きではありませんが、彼は、この字は漢字でいこう、この字はかなに開こう―ということを、ひとつひとつ真剣に考えていると思うんです。
それを書家の好みで変えて良いものか。
文学者の苦心を書家はどう考えているのか。
画像右側は八一の歌ですが、「おほでら」を「大寺」と書かれると、なんだかガッカリします。
同様のことは、手前の扇子などにしたためられている与謝野晶子の歌などについてもいえます。
南艸以外の、わか葉会勢についても触れておきます。
和加子さんの夫君で小児科医であった阿部和男さんの書は、技巧を超えた精神性で、見る人の心を打つということを、以前にも書きました。
敬虔なキリスト者としての感慨が、わたしたち凡庸な徒の生を祝福しているかのようで、なんともいえない気持ちにさせられます。
この左側には、和加子さんが南艸の死を悼む文を書いた大作が展示されていて、これまた、見る者を粛然とした心持ちにさせます。
わか葉会は、決して師(阿部和加子)の書風に合わせようと弟子を強いるのではない、懐の広い社中であることは、よく分かりました。
なにせ、漢字や調和体(近代詩文書)もあるのです。
画像は大門玉泉さんが苫小牧の樽前山について自画自詠を書いたもの。
のびやかで、巧まざる書家の精神がみなぎっています。
2022年3月26日(土)~4月3日(日)午前9時半~午後5時、月曜休み
北海道立近代美術館(札幌市中央区北1西17)
過去の関連記事へのリンク
■10人の書展 (2010)
■第25回読売書法展北海道展 (2008)
■第24回読売書法展 (2007)
第47回北海道書道展(会員・招待) =2006
札幌拠点で「わか葉会」を主宰し、現役のかな書家では道内を代表するひとりといえる阿部和加子さん(読売書法会会員、北海道書道展理事長)が、松本春子の次に師事した神戸の書家山口南艸の作品約50点に加え、南艸が創設した草心会の幹部役員8人の特別出品、それに「わか葉会」「草心会北海道支部」の133人が出品しています。
貸し館ですが、無料というのがありがたい。
筆者は書には疎いですが、これまで北海道書道展などで見た阿部さんの書の元ネタ(というと言葉は悪いですが)はこれか~! と思いました。
たおやかで、連綿を駆使した帖幅の作ももちろんあるのですが、それとは別の展覧会芸術としての南艸の書は、連綿をあまり行わず、散らしに独特の癖があり(たとえば、画像左側の屛風で、万葉集を書いた左から2葉目では、2行目が1行目のすぐ左下に付されています)、墨の潤渇を生かした勢いのある筆遣いです。
これらの挙げた特色は、まさに阿部和加子さんの作品の特徴でもあるのです。
といって、むろん、2人の書風がまったく同一ということではありません。
師は、童謡などを題材にした一部の調和体的な作を別にすれば、およそ可読性などを考えていない自由な変体仮名を次々と繰り出していますが、弟子は、とりわけ漢字はオーソドックスな行書に寄せた書体が多く、また直線を生かした剛直さでも師匠を上回っているように感じました。
南艸ももともと漢字書家だっただけに、かなだけではないオールラウンドな力を発揮していることが伝わってきて、その幅広さは弟子にじゅうぶん引き継がれているようです。
そして南艸は、古今集など王朝和歌ではなく、万葉集と近代短歌を多く書いています。
これは、臨書ではなく、独自の「展覧会芸術としてのかな書」を創ろうとする作者の意欲を感じるのです。
ただ、これは読売書法会の他の書家にもいえることですが、一字一句に心血を注いでいる歌人や詩人の意志をあまりにも無視しているのが、どうもひっかかるんですよね。
たとえば、筆者は個人的には、会津八一の書も短歌もあまり好きではありませんが、彼は、この字は漢字でいこう、この字はかなに開こう―ということを、ひとつひとつ真剣に考えていると思うんです。
それを書家の好みで変えて良いものか。
文学者の苦心を書家はどう考えているのか。
画像右側は八一の歌ですが、「おほでら」を「大寺」と書かれると、なんだかガッカリします。
同様のことは、手前の扇子などにしたためられている与謝野晶子の歌などについてもいえます。
南艸以外の、わか葉会勢についても触れておきます。
和加子さんの夫君で小児科医であった阿部和男さんの書は、技巧を超えた精神性で、見る人の心を打つということを、以前にも書きました。
敬虔なキリスト者としての感慨が、わたしたち凡庸な徒の生を祝福しているかのようで、なんともいえない気持ちにさせられます。
この左側には、和加子さんが南艸の死を悼む文を書いた大作が展示されていて、これまた、見る者を粛然とした心持ちにさせます。
わか葉会は、決して師(阿部和加子)の書風に合わせようと弟子を強いるのではない、懐の広い社中であることは、よく分かりました。
なにせ、漢字や調和体(近代詩文書)もあるのです。
画像は大門玉泉さんが苫小牧の樽前山について自画自詠を書いたもの。
のびやかで、巧まざる書家の精神がみなぎっています。
2022年3月26日(土)~4月3日(日)午前9時半~午後5時、月曜休み
北海道立近代美術館(札幌市中央区北1西17)
過去の関連記事へのリンク
■10人の書展 (2010)
■第25回読売書法展北海道展 (2008)
■第24回読売書法展 (2007)
第47回北海道書道展(会員・招待) =2006