(承前)
企画の塚崎さんのことば。
筆者が見に行った日は、北翔大の山崎政明正明さんによるワークショップ「対話による鑑賞 みる人がアートを作る」が行われていた。
(2017年3月、お名前を訂正しました。申し訳ありませんでした)
山崎さんははじめのあいさつで
「作品の価値は皆さんの中で生まれてくるもの。一般の展覧会では、題や解説のフィルターを通して見ている部分があるのでは」
と、もっともな問題提起をしていた。
美術館で、見に来た人を観察していると、作品を見るよりもキャプションの文章を読むのに懸命な人が、確かに多い。
キャプションを読んではいけないとは思わないが、作品をじっくり見ないで説明に時間を割くのは、本末転倒だろう(ちなみに筆者は、美術館の展覧会の最初にある「主催者あいさつ」は会場では読まない)。
たしかに、前回のワークショップもそうだったが、展覧会の壁面にはキャプションのたぐいが一切ない。
作者と題名を記した紙は別に用意してある。
山崎さんは前回と同様、おだやかな笑顔で、来場者の意見を受け付けて、どの見方も肯定し評価する。決して、若い小学校の先生がやりがちなまずい国語の授業のように、自分の意に沿わない発言を無視してすぐに「ほかにはどうだろう」などと言うことはない。頭が下がる。
往々にして「先生」という存在は自分の望む方向に議論を導いていこうとしがちである。職業が教師でなくても、何かの機会で講師を務めることなどがあれば、人はそういうふうになってしまうのである。山崎さんは「正解が一つある」という観念から自由なのだろう。簡単そうに見えて、なかなかできることではあるまい。
ただ、今回、前回と多少異なっていたように感じられたのは、作者に自作解説の発言を促していたことだろうか。
もちろん、作者の解説が、すなわち「正解」でないことは言うまでもないが。
そして、3人の作品が、一定以上の水準の抽象的な絵画であることが、山崎さんのワークショップを成立させる要因となっていることも見逃せない。
これが凡庸な具象絵画だったら
「●●が描いてありますね」「そうですね」
で、対話が終わってしまうかもしれないのだ。
大井さんの絵は、さまざまな器や人物などが描かれている。
ワークショップでも発言があったが、どういう順番で描かれ、重ねられているのかが気になり出すととまらない。
左側の絵は、人物がスターリンに見えてきて、そうなるとスターリン以外に見えなくなってしまって、困った。
そこから20世紀の世界史へと、どんどん思いが止まらなくなっていくのだ。
大井さんの作品は、個人的な記憶と、世界の出来事とが、出会っている場所のように思えてくる。
末次さんは、精力的に制作・発表しているが、そのたびに画風ががらりと変化することが多い。
左側の絵について、ワークショップでは、吹雪のようだ、とか、凶暴な感じがする―といった発言があった。
末次さんも「原初的なものを伝えたかった」と話し、ワークショップ参加者の声に、うれしそうな表情だった。
林さんの「心をうかべて」シリーズ。
この2点は、もともと1点として制作されていたものを、途中で分割したのだという。
筆者が驚いたのは、左側の絵を「琴似発寒川みたい」と言った人がいたこと。
つまり、青系の絵でもなければ、流れるようなかたちがないにもかかわらず、画面に「水の流れ」を見ている人が、会場に何人もいたのだ。
表層的な鑑賞では、そういう声は出ないだろう。でも、たしかにこの作品は「水の流れ」を感じさせる。
ワークショップ出席者には、2枚1組で「死と生だ」と言う人もいた。2枚1組という説明がなされる前に、である。
自分でも理由はよくわからないながら、これまでの林さんの絵の中でも、じわじわとこちらに迫ってくるものがある作品だと思った。
2016年3月5日(土)~27日(日)午前10時~午後7時、無休
ポルトギャラリー(札幌市中央区南1西22)
関連記事へのリンク
【告知】NO-DOアートプロジェクト―ポルト・由仁「夏の遠足2015」
■北翔大北方圏学術情報センタープロジェクト研究美術グループ研究報告展 Caustics (2015)
■Art in Progress 企画展「Timeless:時の肖像」 (2013)
【告知】絵画の場合2012 -最終章-
=3氏とも出品
■SAG INTRODUCTION(2009)
■絵画の場合(2007年1月)
■絵画の場合(2005年)
=以上、大井氏と林氏が出品
■林亨展(2004年)
■林亨展(2002年)
■林亨展(2000年)
■末次弘明のまとめ展 (2012年)
「日本(?)」との再会をプライベートなドローイングに織りこむ大井敏恭、水を孕んでたおやかに振動するかたちを表現する林亨、日々の生活のなかに生ずる感情をミニマルな平面に託す末次弘明、三作家の近作展。
すべてが口承で語り継がれていた創世時代、アボリジニの人々は、路上で出会う鳥や獣や植物・・・あらゆるものを歌いながら世界を創りあげていった。オーストラリアの赤い大地にはソングラインズと呼ばれる見えない道がいたるところ迷路のように伸び、歌われることで現れる幾万の聖地がある。描き語るそのたびに、いまここは生きられる糧となる。(塚崎美歩)
企画の塚崎さんのことば。
筆者が見に行った日は、北翔大の山崎
(2017年3月、お名前を訂正しました。申し訳ありませんでした)
山崎さんははじめのあいさつで
「作品の価値は皆さんの中で生まれてくるもの。一般の展覧会では、題や解説のフィルターを通して見ている部分があるのでは」
と、もっともな問題提起をしていた。
美術館で、見に来た人を観察していると、作品を見るよりもキャプションの文章を読むのに懸命な人が、確かに多い。
キャプションを読んではいけないとは思わないが、作品をじっくり見ないで説明に時間を割くのは、本末転倒だろう(ちなみに筆者は、美術館の展覧会の最初にある「主催者あいさつ」は会場では読まない)。
たしかに、前回のワークショップもそうだったが、展覧会の壁面にはキャプションのたぐいが一切ない。
作者と題名を記した紙は別に用意してある。
山崎さんは前回と同様、おだやかな笑顔で、来場者の意見を受け付けて、どの見方も肯定し評価する。決して、若い小学校の先生がやりがちなまずい国語の授業のように、自分の意に沿わない発言を無視してすぐに「ほかにはどうだろう」などと言うことはない。頭が下がる。
往々にして「先生」という存在は自分の望む方向に議論を導いていこうとしがちである。職業が教師でなくても、何かの機会で講師を務めることなどがあれば、人はそういうふうになってしまうのである。山崎さんは「正解が一つある」という観念から自由なのだろう。簡単そうに見えて、なかなかできることではあるまい。
ただ、今回、前回と多少異なっていたように感じられたのは、作者に自作解説の発言を促していたことだろうか。
もちろん、作者の解説が、すなわち「正解」でないことは言うまでもないが。
そして、3人の作品が、一定以上の水準の抽象的な絵画であることが、山崎さんのワークショップを成立させる要因となっていることも見逃せない。
これが凡庸な具象絵画だったら
「●●が描いてありますね」「そうですね」
で、対話が終わってしまうかもしれないのだ。
大井さんの絵は、さまざまな器や人物などが描かれている。
ワークショップでも発言があったが、どういう順番で描かれ、重ねられているのかが気になり出すととまらない。
左側の絵は、人物がスターリンに見えてきて、そうなるとスターリン以外に見えなくなってしまって、困った。
そこから20世紀の世界史へと、どんどん思いが止まらなくなっていくのだ。
大井さんの作品は、個人的な記憶と、世界の出来事とが、出会っている場所のように思えてくる。
末次さんは、精力的に制作・発表しているが、そのたびに画風ががらりと変化することが多い。
左側の絵について、ワークショップでは、吹雪のようだ、とか、凶暴な感じがする―といった発言があった。
末次さんも「原初的なものを伝えたかった」と話し、ワークショップ参加者の声に、うれしそうな表情だった。
林さんの「心をうかべて」シリーズ。
この2点は、もともと1点として制作されていたものを、途中で分割したのだという。
筆者が驚いたのは、左側の絵を「琴似発寒川みたい」と言った人がいたこと。
つまり、青系の絵でもなければ、流れるようなかたちがないにもかかわらず、画面に「水の流れ」を見ている人が、会場に何人もいたのだ。
表層的な鑑賞では、そういう声は出ないだろう。でも、たしかにこの作品は「水の流れ」を感じさせる。
ワークショップ出席者には、2枚1組で「死と生だ」と言う人もいた。2枚1組という説明がなされる前に、である。
自分でも理由はよくわからないながら、これまでの林さんの絵の中でも、じわじわとこちらに迫ってくるものがある作品だと思った。
2016年3月5日(土)~27日(日)午前10時~午後7時、無休
ポルトギャラリー(札幌市中央区南1西22)
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【告知】NO-DOアートプロジェクト―ポルト・由仁「夏の遠足2015」
■北翔大北方圏学術情報センタープロジェクト研究美術グループ研究報告展 Caustics (2015)
■Art in Progress 企画展「Timeless:時の肖像」 (2013)
【告知】絵画の場合2012 -最終章-
=3氏とも出品
■SAG INTRODUCTION(2009)
■絵画の場合(2007年1月)
■絵画の場合(2005年)
=以上、大井氏と林氏が出品
■林亨展(2004年)
■林亨展(2002年)
■林亨展(2000年)
■末次弘明のまとめ展 (2012年)