(承前)
1.英語が得意
平山郁夫の回想によれば、横山大観は「TIME」(20世紀米国を代表する雑誌)や英字紙をよく読んでいたという。彼は若い頃に英語を学んでいるし、菱田春草とともに米国を訪ね、日本画が好評をもって迎えられている。
そのように国際的視野を持っていたはずの大観がなぜ1930年代に入り、超国家主義的な風潮に迎合するような画業に走っていったのか。米国と全面戦争に突入して勝てるはずのないことぐらいは分かる開明派ではなかったのか。東京芸大卒で日本画を学び、大観の後輩にあたる小説家の近藤啓太郎は、水戸人の事大主義に原因を求めているようだが、それだけなのだろうか。
明治期の人々の生き方が私たちの胸を打つのは、圧倒的な西洋文明を前に、それを崇拝し心酔するのでもなく、古い江戸期以来の伝統に固執するのでもなく、新しい時代を切り開いていこうと苦闘したからだ。大観ら院展の画家たちは、西洋画の影響を受けつつも、以前の狩野派や南画、土佐派などを総合し、インド絵画をも参照して、絵画の改革に挑んだ。しかし、挑戦が一段落して軌道に乗った瞬間から、視野狭窄と転落が始まったのかもしれない。
2.「Mt.Fuji」でいいのか
わたしたちに必要なのは、後出しじゃんけんで彼(ら)を戦犯として声高に指弾するよりも、彼(ら)の負の側面を隠し立てしたり「なかったことに」したりしないことであり、そして、そのような失策を繰り返さないことだろうと思う。
では、大観が先の大戦に巻き込まれていったというよりも、率先して戦争の旗を振っていたことを、本展覧会の企画者がしっかり反省していたかというと、会場のキャプションなどから判断する限りでは疑問なしとしない。
問題なのは、英語の題だ。
「神州第一峰」も「神国日本」も「乾坤輝く」も、すべて「Mt.Fuji」となっている。これでは、原題がはらむ超国家主義的なニュアンスが伝わらない。大観は、世界に冠たる神の国日本の象徴として富士山の絵を描いたのである。言い替えれば、単に富士山の形状が美しいから描いたのではない。そこにあるのは、国粋主義と超国家主義の象徴なのだ。
彼の戦中の絵を展示し、海軍に寄贈したことも隠さず書くのは、悪いことではない。しかし、この英語題のやる気のなさは、大観の危なっかしい面を非日本語話者に対して隠蔽する効果を持つとしか筆者には考えられない。
3.「南溟の海」と戦争画
自作の絵を破格の高値で完売させてその資金で陸海軍に軍用機を奉納したり、美術報国会の会長に就任したりして、戦中の翼賛体制を率先して主導していた大観だが、1944年に「南溟の海」を発表する。
緒戦での快進撃もつかの間、日本軍は南太平洋で敗退が続き、ラジオや新聞では「玉砕」が相次ぎ伝えられていた。この題には、南洋に散った人々に対する鎮魂の思いが込められているに違いない。
荒れた海と島。ヤシの木が生えている左側は暗く、空には星がちりばめられている。右側は松の木が多く、空もいくぶん明るい。椰子と松とが同じ島に育っている。それは大観が、南洋と日本の心理的な距離の近さを強調しようとしたのかもしれない。
「戦争画」というと、藤田嗣治や宮本三郎による、皇軍兵士の活躍を描いた絵を思い出すが、この大観の絵も「戦争画」と称することは可能ではないか。
この作品は水墨画である。そのことも、鎮魂の思いを強めることに貢献していよう。
4.結語
先の大戦で、戦争に反対しなかった人々を、筆者は責める気にはなれない。
国家主義的な学校教育に縛られ、言論・表現の自由は著しく制限され、政治的な自由もなかった時代である。まして画家は、時局に合った絵を描かなくては、画材の入手すらままならなかった。
しかし横山大観の戦前・戦中の行動は、迎合という言葉では生やさしいほど、戦争遂行と軍国主義の鼓吹に影響力を行使していたと言えよう。
洋画界では藤田嗣治が戦後の糾弾の矢面に立った。彼ひとりに責めを負わせるのもいかがなものかとは思うが、戦争責任を問う動きがほとんどなかった日本画壇というのもそれはそれでいいのかという気もする。大観が戦後もそのまま画壇に残って、1945年以前と同じように絵筆を執り続けたということの意味を、あらためて考え直したい。
2106年4月2日(土)~5月15日(日)午前9時30分~午後5時(入場は30分前まで)、月曜休み
道立近代美術館(札幌市中央区北1西17)
□展覧会特設サイト http://event.hokkaido-np.co.jp/taikan/
□足立美術館 https://www.adachi-museum.or.jp/
1.英語が得意
平山郁夫の回想によれば、横山大観は「TIME」(20世紀米国を代表する雑誌)や英字紙をよく読んでいたという。彼は若い頃に英語を学んでいるし、菱田春草とともに米国を訪ね、日本画が好評をもって迎えられている。
そのように国際的視野を持っていたはずの大観がなぜ1930年代に入り、超国家主義的な風潮に迎合するような画業に走っていったのか。米国と全面戦争に突入して勝てるはずのないことぐらいは分かる開明派ではなかったのか。東京芸大卒で日本画を学び、大観の後輩にあたる小説家の近藤啓太郎は、水戸人の事大主義に原因を求めているようだが、それだけなのだろうか。
明治期の人々の生き方が私たちの胸を打つのは、圧倒的な西洋文明を前に、それを崇拝し心酔するのでもなく、古い江戸期以来の伝統に固執するのでもなく、新しい時代を切り開いていこうと苦闘したからだ。大観ら院展の画家たちは、西洋画の影響を受けつつも、以前の狩野派や南画、土佐派などを総合し、インド絵画をも参照して、絵画の改革に挑んだ。しかし、挑戦が一段落して軌道に乗った瞬間から、視野狭窄と転落が始まったのかもしれない。
2.「Mt.Fuji」でいいのか
わたしたちに必要なのは、後出しじゃんけんで彼(ら)を戦犯として声高に指弾するよりも、彼(ら)の負の側面を隠し立てしたり「なかったことに」したりしないことであり、そして、そのような失策を繰り返さないことだろうと思う。
では、大観が先の大戦に巻き込まれていったというよりも、率先して戦争の旗を振っていたことを、本展覧会の企画者がしっかり反省していたかというと、会場のキャプションなどから判断する限りでは疑問なしとしない。
問題なのは、英語の題だ。
「神州第一峰」も「神国日本」も「乾坤輝く」も、すべて「Mt.Fuji」となっている。これでは、原題がはらむ超国家主義的なニュアンスが伝わらない。大観は、世界に冠たる神の国日本の象徴として富士山の絵を描いたのである。言い替えれば、単に富士山の形状が美しいから描いたのではない。そこにあるのは、国粋主義と超国家主義の象徴なのだ。
彼の戦中の絵を展示し、海軍に寄贈したことも隠さず書くのは、悪いことではない。しかし、この英語題のやる気のなさは、大観の危なっかしい面を非日本語話者に対して隠蔽する効果を持つとしか筆者には考えられない。
3.「南溟の海」と戦争画
自作の絵を破格の高値で完売させてその資金で陸海軍に軍用機を奉納したり、美術報国会の会長に就任したりして、戦中の翼賛体制を率先して主導していた大観だが、1944年に「南溟の海」を発表する。
緒戦での快進撃もつかの間、日本軍は南太平洋で敗退が続き、ラジオや新聞では「玉砕」が相次ぎ伝えられていた。この題には、南洋に散った人々に対する鎮魂の思いが込められているに違いない。
荒れた海と島。ヤシの木が生えている左側は暗く、空には星がちりばめられている。右側は松の木が多く、空もいくぶん明るい。椰子と松とが同じ島に育っている。それは大観が、南洋と日本の心理的な距離の近さを強調しようとしたのかもしれない。
「戦争画」というと、藤田嗣治や宮本三郎による、皇軍兵士の活躍を描いた絵を思い出すが、この大観の絵も「戦争画」と称することは可能ではないか。
この作品は水墨画である。そのことも、鎮魂の思いを強めることに貢献していよう。
4.結語
先の大戦で、戦争に反対しなかった人々を、筆者は責める気にはなれない。
国家主義的な学校教育に縛られ、言論・表現の自由は著しく制限され、政治的な自由もなかった時代である。まして画家は、時局に合った絵を描かなくては、画材の入手すらままならなかった。
しかし横山大観の戦前・戦中の行動は、迎合という言葉では生やさしいほど、戦争遂行と軍国主義の鼓吹に影響力を行使していたと言えよう。
洋画界では藤田嗣治が戦後の糾弾の矢面に立った。彼ひとりに責めを負わせるのもいかがなものかとは思うが、戦争責任を問う動きがほとんどなかった日本画壇というのもそれはそれでいいのかという気もする。大観が戦後もそのまま画壇に残って、1945年以前と同じように絵筆を執り続けたということの意味を、あらためて考え直したい。
2106年4月2日(土)~5月15日(日)午前9時30分~午後5時(入場は30分前まで)、月曜休み
道立近代美術館(札幌市中央区北1西17)
□展覧会特設サイト http://event.hokkaido-np.co.jp/taikan/
□足立美術館 https://www.adachi-museum.or.jp/