まほろば自然博物館

つれづれに、瀬戸のまほろばから自然の様子や民俗・歴史や見聞きしたおはなしをしたいと思います。

秋雨は 昨日のことを まる忘れ

2017年10月19日 | 観光ガイド的日常

 さぬき市地方は前線や湿った空気の影響で、夕方まで雨が降るらしい。気温は15.5度から16.6度、湿度は94%から90%、風は6mから2mの北東の風が少しばかり。降雨量は5mm/hから0mm/h。明日の20日は、湿った空気の影響で概ね曇り、朝まで雨の降る所がある見込みらしい。

 

 今日はずんやりと雨・・・。朝から古本や資料の整理をしたけれど、捨てたとたんに、「あの資料、どこやったやろ・・」なんてことになりかねないので、しばらくは積んどく状態。

 

 今日は火曜日ではないのだけれど、ちょいと、ここにやってきた。「おへんろ交流サロン」ではなくて、「おへんろ資料展示室」である。

 

 ここのガイドマニュアルも作らないといけないので、資料集めにやって来たいう訳。

 

 この人が「中務茂兵衛(なかつかもへえ)」さん。左は、この人がお参りするようにPRしている与田寺さんの案内広告。本名は中司(なかつかさ)亀吉。弘化2年(1845)4月30日に、周防(すおう)国大島郡椋野(むくの)村 (現山口県久賀町椋野)の庄屋中司家の三男として生まれた。(一説には次男との説も)22歳の時に家を出て、四国八十八箇所巡拝を始めたと言われている。

 

 以来二度と故郷には戻らず、生涯巡拝の旅を続け、そして最後となる78歳の巡礼で、6か月余りかかってたどり着いた結願の大窪寺を目前にして病に倒れた。実に280度目の巡礼だった。最後は、彼のよき支援者であり信奉者でもあった久保ちか子宅(現:香川県高松市通り町)で56年にわたる遍路生涯の幕を下ろして大往生を遂げた。時に大正11年(1922) 3月20日午前1時であったと言われている。

 

 彼の残した道標のひとつに刻まれた、『生まれきて 残れるものとて 石ばかり 我が身は消えし 昔なりけり』という句は、自らその生涯を詠み上げているかのように思える。彼の道標建立は、厄年の42歳のとき、巡拝が88回目になったのを記念して始め、以後多数の道標を建立し続け、100度目からは『義教』の法名を刻むようにもなった。

 

 その道標の特徴は、ほとんどが大型(道標高の平均約124cm)であり、刻字に彼の出身地である『周防国大島郡椋野村』と、建立の年月、巡拝度数、茂兵衛義教の氏名・法名を刻んでいることである。これは、東かがわ市の市役所前に残る「278度目」のもの。また、道標には珍しく句歌を刻み、『迷う身を教へて通す法の道』という句を好んで選んでいる。

 

 彼が建立した243基以上にも及ぶ道標は、歩くしかなかった時代の遍路の文化遺産として、現在でも高く評価されている。(上は最後となった279度目の道標で、東かがわ市境目の八丁坂口にある) 一方、四国八十八箇所巡拝の傍ら、富士山・大峰山・葛城山での入峰修行や、西国33観音霊場の巡拝なども精力的に行い、明治24年(1891)には76番金倉寺の住職松田俊順 の弟子として度牒(どちょう)(出家僧の許可状)を受けている。

 

 歩きを中心とした遍路で、100回以上巡拝した遍路は何人かいたが、280回にもおよぶ四国遍路の巡礼は、彼のほかには二度と出てこない偉業であり、その残した功績は計り知れないものがある。

 

 しかしながら、時の移ろいははかないもので、今の時代ともなれば、この人を知る人も少なくなり、道標も交通の邪魔だと破却され、移転され、撤去されようとしている。交通事情の変化によって、必要でなくなったものもあり、多難な時代を迎えようとしている。

 

 彼の残した納経帳は三冊で、およそ、100回分の検討だろうか。このように「重ね印」で真っ赤になっている。

 

  今日の掲示板はこれ。「生きるということは すなわち 悩みと共に 歩くことなのです」という枡野俊明さんの言葉から。「いま確かに生きている。その実感を体中で受け止めてください。寒さや暑さ、痛みさえも生きている実感としてとらえてください。悩みが生まれる原因は一つ。それは何かにとらわれているからです。欲望や夢、ときには人間関係にさえも執着してしまう。その執着心にこそ、悩みの発端があるのです。これだけは手放したくない、これは絶対に手に入れたい。この思いが叶わない時に悩みが生まれます。人間の持つ悩みとは、自分自身で生み出しているものが多いのです。(後略)・・・・・」

 

じゃぁ、また、明日、会えたら、いいね。


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