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感情と思考の事典

2010-02-05 | 心理学辞典
感情と思考の事典 まえがき

感情と思考の事典 まえがき

 心理学の事典も辞典も、本邦に限定しても、そして、この20年に限定しても、その数は少なくない。そこにあえて、感情と思考にテーマを限定した事典を刊行することになった。一見すると、感情と思考、水と油である。これを「と」でくっつけた事典を刊行した趣旨は、2つある。
 一つは、心理学の研究の歴史的経緯からのものである。
20世紀後半の心理学は、認知と思考がもっぱら心理学の研究をリードしてきた。しかし、1986年にACRESという感情を組み込んだ人工知能が発表され、さらに、感情研究のほうでも1970年代から認知論的なアプローチと呼ぶにふさわしい流れができつつあった。出自はことなるが、2つの研究領域で、感情と認知の出会いがあったのである。そうした中で生まれた成果を紹介してみたいとの思いが、本事典刊行の趣旨の一つである。
 2つ目は、知と情とを融接現象としてとらえてみたいとの思いがある。
知情意の3分法を持ち出すまでもなく、知と情意とは、心理学でもまさに分割研究されてきた。しかし、日常の心理的体験としては、知と情意とはお互いに融接していることのほうが普通である。たとえば、数学の難しい問題を解く論理知の活動のなかにも正しさへの感情的な評価、どんどん目標に近づいていく高揚感といった感情成分が密接不可分に混在している。こうした観点から感情と思考をとらえ直してみたら、面白いのではないか、というのがもう一つの刊行の趣旨である。





セレンディピティ

2010-02-05 | 認知心理学
思わぬ発見  発見したい人だけが発見する        
■頭を柔らかくするポイント**************************************
1)知的な努力あっての偶然の発見である。
2)豊潤な知識あっての発見である。
3)一時他のことをすることも大切。 *********************************************************************

●田中さんも白川さんも偶然の発見が受賞に  
2001年は白川英樹教授が、2002年には田中耕一氏が、共にノーベル化学賞を受賞した。  おもしろいのは、お二人とも、混合するものを間違えた結果できてしまったものが大発見につながったところである。  
こんな話は、実は、化学だけでなくいろいろの分野の科学的な発見にはつきものといってよいくらいたくさんある。あたかも、偶然の誤りが発見のための必須条件であるかのように思いたくなるくらいである。  
井山・金森著「ワードマップ・現代科学論」(新曜社)では、こうした偶然の発見「セレンディピティ(serendipity)」について、その心理過程にまで言及しながら、広範かつ詳細に紹介しているので参照されたい。  ここでは、セレンディピティから、日常的な発想のヒントを3つ引き出して、それについて考えてみたい。

●過去の努力の経験が大事  
我が大学の数学の先生で、散歩していて恐竜の化石を発見した人がいる。これは発見ではあるが、セレンディピティではない。なぜなら、恐竜の化石を発見しようとして過去に努力をしたことがないからである。  
セレンディピティは、「発見したい、しかし、どうしても見つからない」という、それこそ死ぬほどの苦しみが過去にあっての話である。  もっともその努力は、宝くじを当てるやみくもな努力とは違う。それは、確率的な必然性を追い求める努力であるが、科学的な発見のための努力は知的で、理論的な必然性(予測)があってのものである。もっとも、その理論が誤っていることもしばしばで、それに気がつかないと一生を棒にふることになる怖さもあるのだが。余談だた、あのニュートンでさえ、錬金術を信じていたそうだ。
●関連する知識の豊穣さが大事  
知的な努力は、その結果として、頭の中にある広範な知識を活性化し、さらに、旧知識の組み替えもすることになる。それが、新たな予測を生む。そして、試行錯誤がおこなわれる。だからこそ、「錯誤」の中に発見の種を見つけることができるのである。  
ここで大事なのは、関連する知識の豊かさである。それがなければ、活性化も更新も、そして発見もない。子どもは、日々発見の連続であるが、それは、知識不足ゆえの「発見」である。それはそれで知識獲得にとっては非常に大切なことではあるのだが、あくまでその子どもにとっての「発見」に過ぎない。  
真の発見は、発見者にとっては、発見されて当然のしろものなのだ。もっとも、田中氏のように、それが大発見なのか、小発見なのかは、本人は知るよしもないということもあるし、いつも大発見だと言いつのる人も時にはいる。

●他のことをすることが大事  
セレンディピティでもう一つ大事なのは、「他のことをする」ことである。  
発見にしても発明にしても、目的ははっきりしている。その目的に向けてすべてを集中させる。これが知的努力である。この知的努力によって、いわば、知識の深堀をするのである。  
ただ、こうした知的努力は、視野を狭くしてしまうらしい。見えるものも見えなくさせてしまうところがあるらしい。そこに、「他のことをする」意義がある。  
知識の深堀は、しばしば思考のど壷にはまらせてしまうことがある。そこから抜け出られないために、堂々廻りをしてしまう。そんな状態からの解放のために、「他のことをする」のである。  さらに「他のことをする」効果としては、新たな視点から事態を眺めさせるということがある。視点変換である。  
もう一つは、気晴らし効果である。ど壷にはまると、落ち込む。自信を喪失してしまう。そんなとき、パチンコやテニスといった気晴らしも有効であるが、もっと有効なのが、もう一つのテーマを集中してやってみることである。不思議なことに、そんな最中に、前のテーマの解や見つけようとして見つからなかったことが見つかることがある。これがまさにセレンディピティである。  思考テーマの二股かけは、不誠実なことではない。


*****82行 体験「セレンディピティの体験を思い出す」
*************  セレンディピティとは、もともとは、「探し求めているものではないものを発見する能力」(井山ら、前掲書より)である。あなたの日常的な体験として、こんなことが過去にあったかどうかを思い出してみてほしい。 「解説」  筆者の場合、最もよくあるのは、本である。以前探したときは「どうしても」みつからなかった本が、別の本を探してるときに、偶然みつかるのである。過去の「どうしても」が記憶に残っていたからこその「発見」である。 クイズ「誰が見える」
******************** 次の絵には、誰が見えるか。 図は別添   「解説」  この絵は、あまりによく知られてしまったので、クイズにならないかもしれない。「嫁と姑」と呼ばれている多義図形の一つである。一方の見えが他方の見えを隠してしまい、嫁と見た人は姑が見えない。その逆もある。どちらを見るかは、見る人の知識やその時のい欲求による。いずれに見えるにしても、しかし、あるとき一瞬にして姑/嫁が見えてくることがある。セレンディピティの話をするには、実に都合のよい現象なので、あえて、ここで紹介してみたが、その意味するところは、おわかりいただけれと思う。      ************************* 引用 「(発見の)チャンスは、待ち構えた知性の持ち主だけに好意を示す」(パスツール) 「偶然と洞察力によって、探してもいないことをいつも発見し続けた」(「はじめに」) 「あの発見の準備ができていたといえます。あの発見にばったり出くわしたというよりは、むしろ、あの化合物が彼の前に歩いてきたのを、さっと捕まえたようなものです。鋭敏で、待ち受ける心構えが必要なのです。」(ベダーセン)  *引用先ロバーツ、R.M.(安藤喬志訳)「セレンディピティ-;思いがけない発見・発明のドラマ」(化学同人)

真正な元気 「心を元気にする習慣づくり

2010-02-05 | ポジティブ心理学
心の元気には、2つある。
一つは、から元気と呼ぶのがふさわしいのだが、
やや表面的で一時的な気持ちの元気
笑顔、あいさつなどによる元気は、もっぱらこちら

もう一つは、真正な元気
前向き、ポジティブ、ストレス耐性がある、
こんなイメージである。
宗教心 使命感 などによる元気はもっぱらこちら

から元気を貯蓄すると真正の元気になる(ような気がするが)
さて、どうなのか

記事にアップしている「心の元気つくり」には、
から元気と真正の元気とが混在している

私の授業の評価結果

2010-02-05 | 教育


学生による授業評価

●「必修、多人数講義、午後1時から」の授業の評価は、最悪
 アメリカの大学では、学生による授業評価の歴史は古い。関連する心理学的研究も膨大である。かつて、その文献レビューをして「IDE???」に投稿したことがある。余談になるが、そして笑ってしまったのだが、それらの研究のかなりのものが、「あなたの評価が低くとも、それはあなたのせいではなく、状況がそうさせているのです」ということを証拠立てるための研究だったことである。
 こんな話を最初に紹介したのは、今回、自分が1年間担当した「一般心理学」(健康・スポーツ心理学科と福祉心理学科の1年生対象)の授業評価の結果が、評価用紙の結果を見るまでもなく、とてもひどい結果になってしまったからである。すべてにわたり、両学部全体の平均値よりはるかに悪い結果となってしまった。日常の彼らの授業態度、行動からも、この結果は想定ずみであった。むしろ、5段階の3点以下がなかったことに驚いているくらいである。
 でも、それは、「自分が悪いからではなく、状況が悪かったからです」という言い訳をしたかったからである(嘘半分!)。
 見出しの“「必修、多人数講義、午後1時から」の授業の評価は、最悪”は、事実としてある。まったく、自分の授業は、この状況だったのであるから、低い評価は、当然なのだ、と言いたかっらである(嘘半分!)。

●対象学生によって、おなじ授業でも異なる評価
 これも、その「IDE???」に実践研究例として掲載してあるが、昔々、同じ授業を毎週、対象学生を変えて3回していたときに、学生による授業評価をしてもらったことがある。びっくりしたのは、対象学生によって、その評価がかなりずれのである。生物関係の学生が一番好意的に評価してくれたのに対して、体育関係の学生の評価が一番厳しかったのである。さらに驚いたのは、授業内容、方法、熱意のすべてについての3つのクラスの評価がほとんど平行移動的にずれているのである。
 今回の授業、体育関係の学生が2/3を占めていた。評価が厳しいのは、そのせいであろう。(これも、言い訳になる!)
 適性処遇交互作用、つまり教え方(処遇)は、学生の適性(能力)に応じて最適化すべしという提言が教育心理学ではなされる。それを講義することもある。
 今一度、謙虚にこの提言に従う授業を展開してみたい。しかし、大学での教職歴40余年にして、どうやればよいのかわからない。自信喪失状態である。

●授業をみせてください
 以上が、両学部の教員一同が会したFD研究会で自分がレポートした内容である。そこでもお願いしたことであるが、ぜひ、先生方の授業を拝見させてほしい。2回行われたFD研究会での評価結果をみると、全体にかなり学生評価が良好である。そのなかでの自分のこの低い結果は、本当に恥ずかしい。
 うれしいことに、半数以上の先生が、どうぞ見に来てください、といってくれた。
 「状況が悪い」「学生が悪い」で済ますわけにはいかない。教育者としてのそろそろ終局に近づいてきた今、最後の願い?として、せめて平均を超える授業評価を獲得したい。これでは、死ぬに死ねない(大嘘!)。