04/4/23海保 「指導と評価」04/7?月号 締切り 04/5 111112222233333444445555566666 30文字 要旨 10行 本文 180行 「確かな学力」とリテラシー 海保博之 筑波大学教授
要旨*****11行 300字
●リテラシー(literacy)は、元来は「文字の読み書き能力」の意味であるが、その意味が拡大されて、社会の中に新しくて強力な道具が普及してくると、その使い方や使える力を意味する言葉として使われるようになった。
●リテラシーを教育との関係で吟味すると、道具性、ルール性、学習強制性、社会性の4つが主要な観点として浮かびあがってくる。
●「確かな学力」に含まれる、「知識・技能の学習」「内発的動機づけに従った学習」「問題解決学習」の3本柱のうち、「知識・技能の学習」には、リテラシー教育はなじむが、これ以外については、リテラシーを越えた潜在的な部分にこそ、「確かな学力」形成の芽がある点を認識する必要がある。
******************************
●はじめに
リテラシー(literacy)は、社会の中に、新しくて強力な道具が出てきて、その使い方や使える力を広く一般の人々が身につけることが必須になってきたときに、その使い方や使える力を意味する言葉として使われてきた。 リテラシーの本来の意味が「読み書き能力」なのは、紀元前3千年前頃に発明されたシュメール文字が、コミュニケーションの道具としての役割の重要性が認識されたことと無関係ではないであろう。 また、情報化社会の今は、「情報リテラシー」、「コンピュータ・リテラシー」、あるいは、「メディア・リテラシー」のように合成語としてリテラシーが使われているのも、情報、コンピュータ、メディアが、道具として重要な役割を果たしていることを反映している。ちなみに、出版本のサイト「アマゾン・コム」で「リテラシー」を検索すると、ヒットした245冊の8割以上がこの3つの合成語である。あと20年もすると、どんな新しいリテラシー合成語が生まれるのであろうか。 閑話休題。やがてその社会に出て活躍することになる子どもに、あらかじめ学校で、さまざまなリテラシーを身につけてほしいと考えるのは当然である。「確かな学力」として、リテラシーを想定するのも、これまた当然である。 そこで、本稿では、リテラシーについて、あらためてその意味、とりわけ、教育的な意味を考えてみた後に、「確かな学力」の一部としての「どんな」リテラシーを「いかに」子どもに身につけさせるか,さらに、そこにはどんな問題点が発生してくるかを考えてみたい。
●リテラシーの特性を分析してみると
学校教育を想定しながら、リテラシーの特性を吟味してみると、「道具性」「ルール性」「学習強制性」「社会性」の4つが浮かび上がってくる。 1)社会や環境に働きかける新規で強力な道具に対して、リテラシーが求められる(道具性) 前述したように、リテラシーは道具の出現と普及に密接に関係している。ただし、ここでは、「道具」の意味をかなり広くとることになる。つまり、「道具」とは、自分と社会・環境との間にあって、社会・環境に働きかける概念的装置および物理的装置である。 概念的装置としての道具の代表は「知識」である。物理的装置としての道具の代表は現在では「コンピュータ」になる。文字のように、思いを表現する概念的装置でもあり、また紙に記して情報を伝達する物理的装置でもある道具もある。 いずれにしても、それは、その時代、社会、さらにその人において新規であり、かつ、強力であるために、そのリテラシーを身につけないと、快適に生活ができない。ここで、リテラシーが教育と強くかかわってくる。 2)ルールがある(ルール性) リテラシーにはルールがある。そのルールが文書に表現できるほどに顕在的な場合から、ほとんどルールを意識化はできないが、明らかに暗黙裏には存在しているような場合まである。 たとえば、リテラシーの本来の定義である読み書きそろばんにかかわるルールは、そのすべてが顕在的で明確に記述することができる。これに対して、道徳や人倫となると、その存在は誰しもが否定はしないものの、ルールとしてそれを記述するとなると、記述できないもの、あるいは同意されないものが残される。 なお、潜在的なリテラシーを顕在化させるのが教育研究者の仕事の一つとしてある。 3)学習しなければならない(学習強制性) リテラシーは誰しもが身につけるべきものとして存在する。リテラシーには、それを共有することによって集団---大は国家、小は学級・家族まで---の運営コストを下げ、集団に一定のルールや雰囲気を醸成する装置にもなる。したがって、所属集団の一員になるためには、顕在、潜在にかかわりなく、その集団で採用されているリテラシーを強制的に学習することが求められる。 しかし、達成目標を簡単に学習できるレテラシーと、長期間の訓練、あるいは、無意図的な学習を要するレテラシーとがある。たとえば、ひらかな文字の読み書きなら、高々2か月くらいの学習で済むが、伝統芸能での所作の学習となると、何をどれくらいの期間、学習すればよいかの見当がつかないことがある。 4)社会に受け入れられる(社会性) その社会で人工的に作り出されたものである。したがって、それを身につけることで、社会的に適応できることが前提になる。逆に身につけないと社会から爪弾きにされる。したがって、カリキュラム作成の観点からすると、必然的に実質陶冶的になる。
●「確かな学力」とリテラシー
文部科学省が提案する「確かな学力」をホームページから引用してみると、次のようになる。 「確かな学力とは、知識や技能はもちろんのこと、これに加 えて、学ぶ意欲や自分で課題を見付け、自ら学び、主体的に判 断し、行動し、よりよく問題解決する資質や能力等まで含め たもの。」 この定義の中には、3つの柱がある。「知識(宣言的知識)・技能(手続き的知識)の学習」と「内発的動機づけに基づく学習」と「問題解決学習」とである。 それぞれについて、前項のりテラシーの特性を踏まえて、リテラシーとの関係、そして、学習上の課題を検討してみる。話しが散漫にならないように、情報リテラシーを中心に想定する。 1)知識・技能の学習とリテラシー 情報リテラシーに限らず、リテラシーが最も馴染むのが、知識・技能の学習である。 情報リテラシーには、まぎれもなく道具としてコンピュータがあるので、「道具性」も「ルール性」も、そして「社会性」も極めて高く、したがって、学習目標も設定しやすい。学習する社会的な意義も自明なので、学習を強制しやすい。 問題点を挙げるとすれば、一つには、コンピュータ技術の急速な進歩にリテラシー教育が追いついていけないことである。今学習している知識・技能に関して身につけたリテラシーが、学校を出た時には陳腐化してしまう。ドッグイヤー(人の7年を1年のスピードで)で進化する携帯電話における技術革新をみてほしい。 この問題点を克服するには、人と物に多大のコストをかけ続けなければならない。ちなみに、これは、新しい教科「情報」がただちに直面する課題でもある。 2つ目の問題点は、情報リテラシーは、インターネットや電子メールにみられるように、道具性、社会性が強いだけに、学校の枠を簡単に飛び出てしまう。言うまでもなく、これには長短ある。 短所の一つは、教材化されないむき出しの知識が子どもに浴びせかけられてしまうことである。長所の一つは、ともすると保守的、自閉的になりがちな学校現場に、今の社会における最新の中核技術が導入されることによる活性化である。 2)内発的動機づけに基ずく学習とリテラシー 内発的動機づけに基づく学習は、リテラシーとはなじみが悪い。というより、一般的には、リテラシー教育は「決まりを学べ」であるから、むしろ、内発的動機づけに基づく学習を抑制する方向に機能する。とりわけ、コンピュータの操作リテラシーには、そうした面が強い。 これは、リテラシー教育に内在する問題点としてきちんと認識した上で、総合的な学習などで、それを補う、あるいは、克服する方途を考えるべきであろう。 3)問題解決学習とリテラシー 問題解決学習は、「問題把握」からはじまって「解決への試行錯誤」、そして「解決」とその「発表」の段階を踏む学習である。 大きく、数学や理科のように「唯一の答のある問題」の解決学習と、総合学習の課題のように「唯一の答のない問題」の解決学習とに分けることができる。 「唯一の答のある問題」の解決学習には、「知識・技能の学習」ほどには明示的にではないが、リテラシーがあることはある。たとえば、図形問題での補助線の引き方、式の展開の仕方などなど。情報リテラシーの学習なら、操作リテラシーにかかわるものである。 しかし、それを知識として知っても、問題解決にはそれほど役には立たないのが、「知識・技能の学習」との違いである。宣言的知識として知った上で、たくさんの問題を解く経験を通して、手続き的な知識にしなければならない。
大事なのは、「解決への試行錯誤の段階」であるが、ここには、顕在リテラシーはあまりない。ほとんどが潜在リテラシーとしてしか存在しない。「創造のためのリテラシーをいくら学んでも、創造はできない」という、宣言的知識と手続き的知識の乖離に直面することになる。 さらに追い打ちをかけるのが、社会性の低さである。そんな学習上の苦労が、将来、道具として役立つことを、目に見える形で示せないことである。当然、学習を強制せざるをえなくなるが、限界はある。今問題となっている、理科離れ、数学離れをもたらす要因の一つがこんなところにあるように思える。 「唯一の答のない問題」の解決学習になると、リテラシー教育は最初から最後まで、2つの知識の乖離に直面することになる。 テーマの決め方からはじまって、データの取り方、論理の進め方、表現の仕方まで、それぞれのリテラシーはあるものの、それを知っただけでは問題の解決はできない。 ここで試されるのは、教師の学識である。知の探求心と言っても良い。学問や伝統技能の世界で言うなら、師弟関係の中にある潜在リテラシーの質である。 なお、「唯一の答のある問題」の解決学習と違って有利な点がある。それは、学習の目的が社会性に富んでいるものが多いことである。したがって、学習への内発的動機づけも一般には高くなる。
●おわりに
教育がリテラシー志向になるのは、わかりやすいだけに、誰からも支持される。しかし、リテラシー志向が極端になると、学校が自動車教習所と同じになってしまう。教育に組み込まれているあいまいさや子どもの自発的な試行錯誤の体験を通しての創造的な挑戦心の芽を摘んでしまう危険性がある。 教師にとっての課題は、やや逆説的な言い方になるが、あいまいさや試行錯誤体験のなかに潜在しているリテラシーを絶えず発掘する努力をしながら、リテラシー志向の教育に含まれるリスクや短所にも配慮して「確かな学力」の形成をめざすことになる。とりわけ、「内発的動機づけに基づいた学習」「唯一の答のない問題の解決学習」とのバランスをいかに保証していくかがポイントになる。