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大学教員と「雑事」

2011-03-04 | 教育
「雑事」の熟達者を育てる
----大学運営の効率化のために
 
●大学教官の仕事の多彩さ
 大学教官には、研究者としての仕事と教育者としての仕事に加えて、研究と教育にまつわるさまざまな「雑事」がある。研究管理業務はさておき、教育関連の業務、たとえば、入試業務、カリキュラム編成業務、学生指導業務などなど。こうした業務のほとんどが、多くの教官にとって、実は「雑事」感覚で行なわれている。
 ・本業は、研究と教育。更に、言う  なら、研究が本務
 ・できれば、やりたくない
 ・やるとしても、できるだけコスト  をかけたくない
 こんな「雑事」感覚で行なう仕事の質がどんなものになるかは、言うまでもない。仕事の質だけではない。やっている本人の精神状態もはなはだよろしくない。「アーアー。今日も一日無駄に過ごしてしまった」という気持ちの持続が何をもたらすか。想像するのも怖いくらいである。

●教官にとって雑事でも大学運営にと っては重要
 しかし、よくよく考えてみると---当時者の外から見れば、考えるまでもなく至極当然のことだと思うが---、「雑事」感覚で行なうこれらの業務は、大学運営にとっては、少なくとも短期的には、重要業務である。
 目の前で困っている学生がいたらなんとかしなければならない。入試問題を作り採点しなければ学生がこない。カリキュラムを作らなければ授業は成り立たない。
 これらを「雑事」感覚でやられては学生も大学も、そしてやっている本人も救われない。しかし、多くの大学教官にとっては、「雑事」感覚での仕事なのである。「そんなことはない」と異義を唱える教官がどれくらいいるか、実は知りたいところであるが。
 これでは、大学の管理運営の質は高まりようがない。管理職一人がむなしくがんばり、有能な事務官もまた教官の業務遂行能力を小馬鹿にしながら仕方なく自分達が仕事を抱え込むような図式が出来上がってしまう。
 この図式を変えることが、草の根から大学を変えることになると思う。

●「ローテーションだからしかたない」
 が問題
 誰もがやりたくない仕事を何とかやってもらうには、1、2年のローテーション方式が一番。「順番だから引き受けて欲しい」というものである。これを断るのはかなり勇気がいる。かくして、大学の「雑事」は、誰もがちょっとの間だけ我慢してやる仕事の一つとなる。
 たとえば、誰もがその大事さも大変さも知っている業務の一つに入試がある。問題作成から採点、種々の段取りなどなど、慣れない仕事に振り回されることになる。かくして、「1年のローテーションで順番で」となる。いつも忘れた頃に昔やった仕事が回ってくることになる。
 もっと上のレベルでは、管理職を誰がやるかさえも、なんらかのローテーション方式を取っているところが圧倒的に多い。筑波大学だけではなく、日本全国で状況は似たりよったりのようである。学会などで「順番でしかたなく***をやらされていて”仕事”(研究のことを指す!!)が出来ない」と微妙な(?)顔つきをして嘆く友人が、年代のせいであろうが、非常に多い。一般の社会で、「こんど課長にさせられて仕事ができない」などと言う人はいない。
 
●ローテーション方式から熟達者によ る管理方式へ
 そこで、提案は、大学の管理運営業務を、熟達者が行なう方式に転換すべしということである。
 事務組織、さらに、各教官の秘書機能をもっと充実させることも絶対に必要ではあるが、それでも、教育研究の現場を一番良く知っている教官がしなければならない仕事は、どうしても残る。その部分に限って、それをこなすことに熟達した教官を育てるような方式にしないと、大学の管理運営の質は高まらない。進学率50%の時代、大学の管理運営の重要性は、今後、高まりこそすれ低まることはない。
 そこで具体的な提案は、ローテーション方式をやめて、それぞれの教官の好みや得手不得手に応じた業務をせめて3年、出来れば5年くらいは持続的にやってもらうようにする。場合によっては、特権化したり、マンネリ化したりしないようななんらかの歯止めをして、もっと長期間やってもらってもよいと思う。
 ローテーション方式と組み合わせても良いが、1、2年で変わるような方式は絶対に止める。
 同じ事を3年もやればそれに熟達する。コスト・パフォーマンスも高まる。余裕を持って仕事が出来るし、それなりの使命感も沸いてくる。余裕と使命感が業務の質を変える方に振り向けられることが期待できる。
 さらに、ある業務分野に熟達化した教官が増えれば、情報とノウハウも組織の中に蓄積される。いつも素人論議で会議を浪費することもなくなるし、情報を求めてあちこち動き回らなくとも済む。 

●熟達化を支えるインフラ作り
 この提言を実現するためのインフラ作りは、てっとり早いのは、それぞれの組織で、「そうしよう」と決めるだけでよい。なんの規則改正も不要である。
 もう少し制度的なインフラ整備としては、採用昇進人事である。
 大学での採用昇進の審査では、圧倒的に研究業績重視である。教育業績や管理運営への貢献は、刺身のつまのごときものである。「この教官は、この分野の”業務”のエキスパートである」という評価も、積極的に---研究業績の不足を補う形で---採用昇進に使うようにすれば、強力な誘因にもなる。 こうしたインフラ整備によって、大学教官が、自分はどの業務分野で「もう一つの」専門を持とうかと考えるようになるはずである。そうなれば、大学の管理運営の質の底辺を高めることになる。
(かいほひろゆき 認知心理学専攻)<---本文149行


ゲームは、なぜ、おもしろいのか

2011-03-04 | 認知心理学
●ゲームは、なぜ、おもしろいのか
 このゲームで遊びはじめてからすでに半年くらいたつ。いっこうの飽きない。なぜなのかをあらためて考えてみた。こちら側の要因、たとえば、原稿を書くつらさを少しでも先伸ばししたい(Premackの原理)、頭の活性化をしてから仕事をしようといったことはあるが、それはとりあえずさておくとして、ゲームに組み込まれている仕掛けを分析してみる。

 一つは、単純さである。やることは、3本の指を動かすだけ。ルールも、誰からも教えてもらうこともなくわかる。

 2つは、上達感である。何事によらず、上達する感覚を味わえるのは気持ちがよい。自分に自信が沸いてくる。

 3つは、偶然性である。学習の上達には限界がある。その限界が、偶然によってではあっても突破できることは、これまたうれしい。このゲームでは、偶然が時折ふってくるようになっている。しかも、それをどのように使うかはこちらにまかされているところが憎い。

 4つは、感性刺激性である。音楽とコマの色が心地よい。さらに、コマが落ちてくる速度が、あたかも生体リズムに同期するかごとく速からず遅からずで絶妙である。