認識の道具としての言葉にも、
自分の外の世界を知るためのものと、
自分の心や振る舞い
を知るためのものとがあります。
外の世界を知るための道具としての言葉とは、たとえば、初めて行った外国旅行。第一日目に、その日、目にした事柄を日記に書くことを考えてみてください。
たいていのことは言葉で表現できるはずです。
それがその世界を知ることに他ならないのですが、しかし、よくよく考えると、言葉にならない世界も見聞したはずです。ほとんどの場合は、言葉にならない世界は無視されたまま(認識されないまま)にされてしまっていることにも気が付くはずです。
言葉が認識の道具として使われるというのは、こういうことです。言葉がないと見える世界も見えなくなってしまうこともあることは知っておいていいことです。
このことは、自分の心や振る舞いを知るための道具としての言葉でも同じです。
心や振る舞いの複雑かつ微妙な動きのすべてをあなたは言葉で表現できるでしょうか。
たとえば、青年期まっただ中くらいの年頃になると、表現できない心や行動の世界が急速に拡大します。そのもやもや、不愉快さが青年期特有の心や振る舞いの混乱をもたらします。
自分の外の世界を知るためのものと、
自分の心や振る舞い
を知るためのものとがあります。
外の世界を知るための道具としての言葉とは、たとえば、初めて行った外国旅行。第一日目に、その日、目にした事柄を日記に書くことを考えてみてください。
たいていのことは言葉で表現できるはずです。
それがその世界を知ることに他ならないのですが、しかし、よくよく考えると、言葉にならない世界も見聞したはずです。ほとんどの場合は、言葉にならない世界は無視されたまま(認識されないまま)にされてしまっていることにも気が付くはずです。
言葉が認識の道具として使われるというのは、こういうことです。言葉がないと見える世界も見えなくなってしまうこともあることは知っておいていいことです。
このことは、自分の心や振る舞いを知るための道具としての言葉でも同じです。
心や振る舞いの複雑かつ微妙な動きのすべてをあなたは言葉で表現できるでしょうか。
たとえば、青年期まっただ中くらいの年頃になると、表現できない心や行動の世界が急速に拡大します。そのもやもや、不愉快さが青年期特有の心や振る舞いの混乱をもたらします。
