月刊「祭御宅(祭オタク)」

一番後を行くマツオタ月刊誌

339.大中小の内ゴマ祭車両(月刊「祭御宅」2021.5月8号)

2021-05-16 19:25:26 | 屋台・だんじり・神輿-台車、骨組み、かけ声、楽器、担ぎ方-

●内ゴマの地車(だんじり)

祇園祭の山鉾などは、車輪が外側についており、横幅は狭く、車輪の直径は大きくなっています。バランスがとりやすいうえに、直進しやすいという利点はあります。ですが、車輪の幅が狭いために、無理に方向転換をすると車輪を傷めてしまうので、滑りやすい竹を敷いて辻では方向転換をします。


↑京都祇園祭の山鉾

逆に大阪や岸和田の地車の特徴の一つとしては、車体の内側に車輪がついている内ゴマであることがあげられます。
内ゴマの特徴としては、
①車輪が中心近くにより方向転換がしやすい。
②①の引きずりながらの方向転換などもあるので、車輪は横幅が広く、作られている。
③車体中央部に近い部分に車輪をつけるので、部材や人がいる場所に車輪があたらないように、車輪の直径は小さくなる傾向にある。
といったことがあげられます。

 内ゴマの祭車両と言っても、地域によって、大きなものから小さなものまであります。今回はその大中小それぞれのものを見ていきましょう。ひとまずは、播州の人にとっても身近なだんじりから見ていきます。

●中 地車(だんじり

 下地車と呼ばれる岸和田に分布するものは、後梃子がついています。また、近年では上だんじりとよばれるだんじりにも後梃子がついているものもみられるようになりました。


↑大阪市巽神社正覚寺地車

 

●「大」長浜の曳山

 下の写真は大阪府吹田市の国立民族学博物館の曳山です。大型ではあるものの、かなり地車に近いものになっています。長浜市曳山博物館 (曳山紹介)の側面図を見ると、後ろ側の左右に梃子がついていることが分かります。内ゴマと梃子の相性がいいことが分かります。後ろに地車と同じくのぼりが指されているのが興味深いです。

 屋根が二段構造になっていることなどなどについて書こうとおもったのですが、近々発売される
日本だんじり文化論: 摂河泉・瀬戸内の祭で育まれた神賑の民俗誌 | 森田 玲 |本 | 通販 | Amazon
を見る方が、理解は深まると思われるので、そこには触れません。

 ↓三枚の画像 国立民族学博物館の曳山

 

 

↑国立民族学博物館の曳山の梃子(後側を撮影したと思うのですがさだかではありません。。)

 

●小 丹後半島の「太鼓台」
 丹後半島で「太鼓台」と呼ばれる曳き車も内ゴマです。

 伊根町の宇良神社のものは幟がつくと、小型の地車を思わせます。

 

 運行時には幟をはずし、宇良神社につくと、やりまわしのようなこともしていました。

 

 

 宮につくと太鼓を横にして、舞をまうための太鼓を演奏する台、まさしく「太鼓台」になります。

 宮津市の籠神社のものは、2010年に訪れたときはまだ新しく、梶内だんじり製のふだがついているのを見ましたが写真ではとれませんでした。

 

●大中小内ゴマ祭車両の共通点

 ①後ろの梃子で舵をとったり、方向転換したりする。
 ②後ろ側に幟のようなものを立てることが多い。

編集後記
 上だんじりと、下だんじりの区別することになる文章をあらためました。
 間違いを指摘してくれたDくん、いつもありがとうございます。

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338.加西市の日原大工?の作品とその傾向(月刊「祭御宅」2021.5月7号

2021-05-16 15:23:19 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-

 管理人が三木市吉川町若宮神社御先だんじり(屋台)の調査を依頼されたときに、祭とは関係ない周辺事項の調査(要するにオマケ)として提出したものをもとにして、この記事を作成しました。なお、日原大工の作品が加西市のどこにあるかは、全て、よかわ歴史サークル「吉川町の歴史 吉川の宮大工(日原大工)』から知りました。

 加西市上万願寺の東光寺と、三木市吉川の東光寺の二つの東光寺がこの記事では出てきますが、ここでは(加西市)東光寺、(吉川)東光寺と区別をつけることにします。

●日原大工

 三木市吉川町大沢を拠点に活動していた宮大工です。江戸時代の作品が三木市内だけでなく、近畿一帯に残っています。また、大沢は若宮神社の筆頭座ともいわれる大澤座の拠点です。日原大工の末裔の方にお話しをお伺いしたところ、宮座には入っていなかったそうですが、地元の若宮神社の楼門を作るなど、若宮神社の祭にも何らかの影響力を有していたと思われますが、管理人の調査では分かりませんでした。

●吉川近隣の日原大工の作品

 新しいもので18世紀で、19世紀のものは市内では見つけることが出来ませんでした。管理人が見いだした傾向では、欄干の擬宝珠に時代ごとに特徴がありました。ざっくり言うと、時代が古いほど葱の花のがくのようなものがついており、時代が下るほどがくのような物はなく、金具がついたものが多くなっています。

A(吉川)東光寺鐘楼堂 藤原朝臣日原左衛門尉光政 享保3年(1718)

B 淡河八幡神社本殿 棟梁大沢日原武兵衛 宝暦2年(1752)

●加西市の日原性の大工の作品

 (加西市)東光寺本堂 文化十一年(1814)、若一神社拝殿 天保十五年(1844)、下万願寺町八幡神社覆屋 安政四年(1857)、磯崎神社天保六年(1835)、千山寺本堂 文化四年(1807)と、加西市内で日原の名字をもつ建物は19世紀以降のものに限られていました。では、その作品はどのような特徴があるのでしょうか。

A 欄干

(加西市)東光寺本堂 文化十一年(1814)


下万願寺町八幡神社覆屋 安政四年(1857)


千山寺本堂 文化四年(1807)

上記の欄干を見ると、三木市内の18世紀までの丸い柱ではなく、四角柱の柱に角ばった擬宝珠が削り出されているという特徴がありました。

B 彫刻

そして、日原性の大工の作品かどうかは分からないのですが、同じ境内の別の建物は下のような彫刻のある建物が見られました。

千山寺 


磯前神社随神門


編集後記

 日原大工そのものについて知りたければ、現・三木市文化財保護審議委員会委員を務めていらっしゃる藤田均氏らを中心とする よかわ歴史サークル「吉川町の歴史 吉川の宮大工(日原大工)』2014 をご覧ください。三木市立図書館の吉川分館で見ることが出来ます。

 

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