月刊「祭御宅(祭オタク)」

一番後を行くマツオタ月刊誌

350.明治四年のゴンタ太鼓-当時の大宮八幡宮宮司の日記から-(月刊「祭御宅」2021.5月19号)

2021-05-27 22:02:08 | 屋台・だんじり・神輿-その他伝承、歴史-
●ドでかいゆえのゴンタダイコ
三木市中心部においては屋台はタイコと呼ばれます。そして、腕白を意味する「ゴンタ」がつくと、ある一定の屋台を思い浮かべます。
 今は大宮八幡宮では多くの人が下町を思い浮かべることでしょう。といっても、トラブルを常に起こすからというわけではありません。
 担ぐ人の見た目のイカツさや、屋台のデカさ、落とした時の音の大きさなどから、そんなイメージを持っているにすぎません。ちなみに、あのドでかい屋台を落とさずに石段を昇りきる下町屋台の統率方法は、教育関係者も必見です。
 
●本当のゴンタダイコは年がわり
もちろん祭にはケンカがつきもの、大宮八幡宮の祭でもケンカをしたり、巻き込まれたりというのは、何年も祭に参加していると当たり前のようにあります。この年はあっこがようもめた、そのまえはどこそこでケンカがあったと、ケンカが起きる屋台は年がわりです。大きなトラブルを起こした屋台をゴンタダイコと呼ぶならば、ゴンタダイコは年がわりにめぐってくるものといえます。
  幕末から明治時代まで大宮八幡宮宮司を勤めていた池田春翬(き)氏の日記『大宮神社日記』明治四年に、トラブルを起こした町が記録されていたのです。この当時、屋台は明石町、下町、新町、上町、中町の下五町と高木の計六台、高木の御旅所まで高木が御神輿を先導し、他の屋台は後を付き従っていました(参考*井本由一「明治初年の三木町」『三木史談』一九八〇)。
 そこには、下のように記されていました。崩し字なので、管理人が読めたところだけ記します。
 三木市立図書館に行けば崩し字を解読された全文が掲載された、松村義臣『池田春翬手帖全編 ふるさと三木文庫5』(三木郷土史の会)1989 を見ることができます。「廿二日 曇天晴又正丸 神輿緒?渡御 新町太鼓太こと目廿二日 曇天晴又正丸 神輿緒?渡御 新町太鼓太ことめ 若?老ト若中争論」
 
大宮八幡宮祭礼日は、旧暦の9月13日ですが、その年は延期され22日になっていました。
そして、この年に「太鼓」を「とめ」て、「若?老ト若中」が「争論」したのは「新町太鼓」だったと書かれていました。明治四年のゴンタ太鼓は新町だったようです。
 
 
集後記
 大宮八幡宮の今の祭ができたころのちょっとした出来事を日記からさぐってみました。