月刊「祭御宅(祭オタク)」

一番後を行くマツオタ月刊誌

347.『播磨鑑』の志染荘・三坂大明神(月刊「祭御宅」2021.5月16号)

2021-05-22 22:25:43 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-
●「播磨鑑」
 平野庸脩『播磨鑑』宝暦十二年(1762)頃は、屋台の記述はないものの、播磨の様子を知ることができる地誌として祭オタクの間でも知られています。播磨の神社仏閣名所を詳細に書かれているので、地名辞典や市史などにもかなり引用されています。ですが、播磨という広範囲を詳細に書かれているゆえに間違いなども見られ、それもまた、この書物の面白さになっています。この記事では管理人が偶然に見つけた間違いを紹介します。
三木市内のみさか神社と「播磨鑑」記載の三坂大明神
 三木市内には
 御坂神社・・・志染
 三坂神社・・・細川大柿、加佐
 御酒神社・・・細川垂穂、石野
 美坂神社・・・東這田
の六つのみさか神社があります。さらに、伽耶院など寺院内に三坂神社があつものを加えるともう少し数が増えると思われます。
 「播磨鑑」では全てのみさか神社がしるされているわけではありません。一つは御酒大明神で「在上芝原」とありこれは垂穂御酒神社の氏子域の村名なので、垂穂の御酒神社と思われます。そのほかには「三坂大明神」の記事が三つあります。一つは、笠村で加佐の三坂神社と思われます。もう一つが
 「在中石野村 山林境内御除地 石野三ヶ村ノ氏宮也」
とあり、石野の御酒神社であることが分かります。
●残り一つの三坂大明神
 残り一つの三坂大明神の記事は最後の文にこう書いてあります。
「三木郡ノ内ニテハ 一之宮ト称ス 志染荘十ヶ村ノ氏宮也
これだけを見れば志染の御坂神社だと思えてきます。御坂神社氏子内には、吉田東吉田を一つの村と考えるならば、十か村で構成されているといえ、記紀神話の二皇子が隠れ住んだといわれる岩屋がのこるなど、一之宮にはふさわしいと思われます。
 しかし、冒頭にはこう書かれています。
志染庄 在大柿村
 志染?大柿?どっちどいなと言いたくなりますね。
 
 もうすこし読み進めるとこう書かれています。
延喜式二御坂ト有 這田村 中石野村 志染大柿村三所二有之 何レヲ本社 何レヲ摂社トモ不知 然レトモ大柿村ノ社ヲ本社トセンカ
とあるところを見ると、大柿村が細川ではなく志染の村とされてしまっています。つまり、志染と細川大柿が混同されているものと思われます。
 では、ご祭神などはどちらのものが書かれているのでしょうか。
●東社 西社
「播磨鑑」の「志染大柿村」の三坂大明神のご祭神の記述は下のようになっています。
東社 天御中主尊 中筒男命 斎主命 大山祇命 市杵島姫命 日本武尊
 西社 大己貴命 御中主尊 中筒男命
東と西の両社にわかれており、中筒男命が共通しており、御中主尊は天御中主尊の誤記と思われ、天御中主尊も共通しています。大山祇(咋)命が東、大己貴命が西に配されるのは日吉大社を連想させます。
 これを現在の社殿で見ると、志染の御坂神社は東西にはわかれていません。
 下の写真の細川大柿の三坂神社は拝殿を見るとわかれていないように見えますが、よく見るとしめ縄を垂らしてあるところが二カ所あります。


拝殿の裏からみると本殿は東西にわかれていました。


 西側面後ろ側から見た本殿です。手前の小さな建物が西宮、奥の大きな建物が東宮です。
西側の拝殿と本殿の間からとりました。

東西二社に分かれているのは細川大柿のほうでした。
「播磨鑑」に記述されているご祭神や社殿の様子は細川大柿の三坂神社のものだとおもわれます。しかし、一之宮や志染の記述、十村の記述などは志染御坂神社のことのように思われます。
このように正確に詳細にかかれているように見える「播磨鑑」でも、混同されて書かれていたりするところが他にもあるかもしれません。
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346.平田と○○ -地名を考える-(月刊「祭御宅」2021.05.15号)

2021-05-22 20:22:57 | 民俗・信仰・文化-地名-

●平田という地名について考える
 以前、平田屋台についてあれこれ調べた記事を載せたところ、全国約一億数千万人中何名かが見てくださるという好評を賜りました。今回は、平田という地名について偶然気づいたことがあったので、それを記事にしていきます。


↑屋台蔵完成式の日 2015年

●江戸時代の大宮八幡宮氏子域ざっくり解説

 平田という地名を考えるために、大宮八幡宮の氏子域をざっくり見ていきましょう。
 江戸時代の美嚢郡三木町は岩壺神社の氏子域ともいえる上五町とその地方(じかた)、大宮八幡宮氏子域ともいえる下五町とその地方(じかた)、前田、高木などに分かれていました。
 上、下五町は、美嚢側の東南である岩壺神社、大宮八幡宮がある町屋の集中区域、地方(じかた)は、岩壺、大宮八幡両神社から美嚢川の対岸にある田園域にあたります。前田は宮側に飛び地であったので、宮の前の田という意味でしょうか。高木村は大宮八幡宮の御旅所所在地です。

 地方は加佐、平田、大村で、平田、大村が大宮八幡宮の対岸域で能をみるための桟敷席があるなど下五町側の地方で、加佐は岩壺神社の対岸域にあることから上五町の地方と言えるでしょう。そして、地方三村は、現在でも金剛寺では年交代で鬼追いを挙行しています。大宮八幡宮の神宮寺である月輪寺、金剛寺ともに法道仙人開基とつたわる真言宗寺院です。同じ系統の寺院が町側、地方側にあるとも言えそうです。

 

●金剛寺ご奉仕域としての平田と、「山」

 現在は住宅地などに生まれ変わっていますが、平田は、まさしく「平」地に「田」んぼが広がっていた土地でした。


↑平田の屋台蔵と平田屋台 平坦な土地が広がっているのが分かります。

 そして、平田は大宮八幡宮の地方(じかた)であり、金剛寺で鬼追いなどをご奉仕する地域であることは上で述べました。
 
 ↑金剛寺鬼追い(2019年 当番大村)

 江戸時代の過去帳では滑原、跡部など、奉仕域でない地域はフルネームで記されていました。しかし、金剛寺の奉仕域である平田、大村、加佐は江戸時代の過去帳では、それぞれ村名や町名を全て記さずに「平、大、加」と一文字で表されていました。そして、もう一文字「山」の文字も記されていたのです。

 ご住職のお話によると、これは現在の小野市の「山田」だそうです。平田という地名は、対となる山田があってこその地名だったようです。

編集後記
 平田の名前について、金剛寺の過去帳の表記から考えました。しかし、この記事で分かったのは平田という村のほんの一部についてです。大宮八幡宮の祭の一日目、地元の大歳神社でどのような祭をしているのか、田んぼは、、、、新住民と旧住民は、、、、などなど管理人は同じ市内の祭りでありながら知らないことがほとんどであることに気づかされました。

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345.電飾悲喜交々 -米田新の自前電飾取り付け- (月刊「祭御宅」2021.5月14号)

2021-05-22 17:30:55 | 屋台・だんじり・神輿-衣装、周辺用具、模型-
●近年購入の高砂市米田天神社米田新屋台
米田新屋台は姫路市の屋台を近年購入しました。神輿屋根屋台なので、神紋を変更し、祭に備えていますが、まだ、新型コロナウイルスの影響で祭には出せていないとのことです。今日(2021.05.22)電飾の取り付けしているところにお邪魔しました。
分かっているようで分かっていなかった神輿屋根屋台のメンテナンスの大変さの一端を垣間見てきました。





 
●名工松本義廣の立体的な彫り
狭間の彫り師は川原啓秀のものが入っています。松本義廣の作品は赤穂浪士の場面で、より奥行きがあるように見せるために、奥の人物はかなり小さく、手前の人物は大きく彫られています。このての遠近法は西洋的手法といえるのかもしれません。
 
 
●げんのつな
祭りのときはサラシをまいていて分からなかったのですが、ターンバックルを使っているところもけっこうあるそうです。
↑サラシをまいたげんのつな。姫路市浜の宮天満宮天神屋台
 
↑米田新屋台のサラシをまいていない状態のげんのつな。ターンバックルを使っています。
 
●電飾取り付けの苦労
豆電球から発光ダイオードへ
そして、電飾のとりつけは、かなりの労力を擁するそうです。プロの方に約150から250ほどの電飾をとりつけると、三桁万円になるとのことで、自らの取り付け作業をしていました。
もともとは従来の豆電球を使用していたのを購入を期に発光ダイオードに替えたそうです。豆電球だとトラックのバッテリーを積んでも祭期間に取り替えが必要だったのが、発光ダイオードだと前夜祭から三日間でももつそうです。
↑以前の所有者か米田新の先代屋台で使用していた豆電球。
 
橙色系統の発光ダイオード
とはいえ、発光ダイオードは多くは青白い光でそれだと電飾にあわないので、橙色系統のものを買ってきたそうです。管理人は、別のところでも発光ダイオードで橙色のものを使用するようになったという話しも聞いたことがあり、主流となりつつあると言えそうです。
違う種類のものがまじったり、明るすぎたり、くらすぎたりするだけで、バランスがおかしくなるので、大阪日本橋の電気街に足を運び、丁度いい案配の同じ製品を大量にそろえたそうです。管理人が見学したときにテストとして、路盤の電飾をつけて見せてくれました。テスト用の電源としては、模型電車のNゲージ用のものが丁度いいそうです。
 




繋ぎ方あれこれ
電源→電球3つ→電源を1グループにして、並列繋ぎでつないでいきます。こうすることで、万が一、どこかの配線がつかなくなっても、別のところは電気がきえなくてすむそうです。
灰色の線が目立たないように、金色のテープを巻いて金具の色にあわせたり、金具の裏に隠したりと、繋ぐのは非常に労力をともないます。先代の屋台は昇り総才が箱打ちで金具の間に隙間があったので、まだ取り付けやすかったそうですが、今のは総打ちで隙間がなく取り付けが大変だそうです。今から半年ほどかけて、祭に合わせて取り付け作業を行っていくとのことです。




編集後記
平屋根屋台文化で生きる管理人にとっては、屋台の電飾はあまり馴染みのないものでした。なので、その取り付けには膨大な労力をともなうことも知りませんでした。そこにある並々ならぬ苦労の一端を垣間見ることができました。
取り付けの情報を教えてくださったM氏、見学と掲載の許可を賜った屋台関係者の皆様に感謝申し上げます。
 
赤穂浪士の狭間の彫り師を松本義廣としていましたが、川原啓秀のものでした。間違いを指摘してくれたu君に感謝。




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