●このような時だからこそ
韓国が日本への渡航を制限(ヘイトスピーチの激化、放射能への懸念から)しようとしており、日本は韓国を貿易ホワイト国から除外する政令を公布しました。
政府間の関係は悪くとも国民間や文化間の関係は良くしたいものです。それが、本当の意味で自文化や祭に誇りを持つことにつながります。
それはさておき、一時期五万円ほどはらうようなことがあったのが、このような時なので一万円代と渡航費も安くなっています。
にもかかわらず、少なくとも管理人が旅行した間に日本人だからといって受けた嫌がらせは皆無でした。逆に日本人だからと受けた親切は数知らずです。今日コムタン(牛の内蔵煮込みスープ)を頼んだ食堂では、飲みに来ていたお客さんに、デザートにぶどう一房いただきました。
さらにそれもさておき、祭オタクとして朝鮮半島・韓半島の文化を知っていた方がいい理由を紹介します。
隣国から日本へ
・素戔鳴尊の曾尸茂梨の処降臨
播州の誇る祭文化の一つに刺繍業者「絹常」が挙げられます。そのお膝元の加東市八阪神社の屋台の刺繍工芸は全て絹常の作品です。八阪神社の屋台なので、神社の主神である素戔鳴尊をモチーフに水引幕を仕上げています。
この素戔鳴尊は「日本書紀」に「一書曰く」として下のような記録が残っています。
「素戔鳴尊、其の子五十猛神を師ゐて、新羅国に降到りまして、曾尸茂梨の処に居します」
曾尸茂梨の処がどこなのかにはいくつか説があります。このサイトによると、平安期の「続日本紀」の段階ではすでにわからなくなっていたみたいで、江戸時代には八箇所あげられていたそうです。
この8つの中にあるのか分かりませんが、
①現在の慶尚北道の海印寺あたりの牛頭峯(우두봉・ウドゥボン)だという説。
↑海印寺の大雄殿前から見る風景。
②前掲リンク先のように江原道春川の牛頭山
など、牛頭天王との習合から考えられているのがいくつかあります。
その真偽のほどはわかりませんが、素戔嗚の出所を朝鮮半島に求める気風の中で、屋台文化が成熟してきたことは注目すべきです。
・儒教の伝達
祭りの中でよく言われる「上下関係」。これも儒教の影響といえそうです。古代より百済から仏教同様に伝わったそうです。
江戸幕府は、封建支配の強化の為に、儒学者の林羅山を重用しました。この時代のものが、今も比較的色濃く残っているように思われます。
その林羅山の師匠が、三木出身の藤原惺窩であり、彼に影響を与えたのが、文禄・慶長の役で捕虜となっていた姜沆(かんはん・강항・カンハン)です。
三木市細川町の藤原惺窩像
韓国全羅南道霊光郡内山書院姜沆像
韓国全羅南道霊光郡内山書院 姜沆の故郷。
「看羊録」という姜沆が書いたと言われる本を見ると、確かに秀吉のことを賊魁と書いたりもしています。ですが、三木合戦の前に秀吉が一人で三木側の陣内に入って長治公を説得しようとしたこと、秀吉を討つチャンスにも関わらず、長治公は秀吉を逃したことなど、長治公の人徳がある部分や、秀吉の肝の据わったさまも淡々と書かれています。
・仏教の受容と伝達
全羅南道霊岩郡法聖浦
この地にインドの僧摩羅難陀が到着し、山奥に仏甲寺を建てたと言われています。伝説ではここに百済の仏教が花開き、やがて日本にも伝わっていったと思われます。
面白いのは仏甲寺と内山書院は近い場所にあり、姜沆は仏甲寺にも文章を書いているそうです。
藤原惺窩が元々仏教僧であったように、儒仏習合からは抜け出せない一面があったのかもしれないし、そこに良さがあるのかも知れません。
今回は主に三つの例をあげました。全羅南道は伝統的に文在寅大統領の属する民主党の勢力がつよいところです。そんな中でも、本当に親切にしてくださった方がたくさんいました。政治的には対立しているところもありますが、祭文化のルーツの一つがある国だということに変わりはありません。政治を超えて差別的な発言をすることは、自分の屋台に唾を吐くようなものだと思う今日此の頃です。
韓国が日本への渡航を制限(ヘイトスピーチの激化、放射能への懸念から)しようとしており、日本は韓国を貿易ホワイト国から除外する政令を公布しました。
政府間の関係は悪くとも国民間や文化間の関係は良くしたいものです。それが、本当の意味で自文化や祭に誇りを持つことにつながります。
それはさておき、一時期五万円ほどはらうようなことがあったのが、このような時なので一万円代と渡航費も安くなっています。
にもかかわらず、少なくとも管理人が旅行した間に日本人だからといって受けた嫌がらせは皆無でした。逆に日本人だからと受けた親切は数知らずです。今日コムタン(牛の内蔵煮込みスープ)を頼んだ食堂では、飲みに来ていたお客さんに、デザートにぶどう一房いただきました。
さらにそれもさておき、祭オタクとして朝鮮半島・韓半島の文化を知っていた方がいい理由を紹介します。
隣国から日本へ
・素戔鳴尊の曾尸茂梨の処降臨
播州の誇る祭文化の一つに刺繍業者「絹常」が挙げられます。そのお膝元の加東市八阪神社の屋台の刺繍工芸は全て絹常の作品です。八阪神社の屋台なので、神社の主神である素戔鳴尊をモチーフに水引幕を仕上げています。
この素戔鳴尊は「日本書紀」に「一書曰く」として下のような記録が残っています。
「素戔鳴尊、其の子五十猛神を師ゐて、新羅国に降到りまして、曾尸茂梨の処に居します」
曾尸茂梨の処がどこなのかにはいくつか説があります。このサイトによると、平安期の「続日本紀」の段階ではすでにわからなくなっていたみたいで、江戸時代には八箇所あげられていたそうです。
この8つの中にあるのか分かりませんが、
①現在の慶尚北道の海印寺あたりの牛頭峯(우두봉・ウドゥボン)だという説。
↑海印寺の大雄殿前から見る風景。
②前掲リンク先のように江原道春川の牛頭山
など、牛頭天王との習合から考えられているのがいくつかあります。
その真偽のほどはわかりませんが、素戔嗚の出所を朝鮮半島に求める気風の中で、屋台文化が成熟してきたことは注目すべきです。
・儒教の伝達
祭りの中でよく言われる「上下関係」。これも儒教の影響といえそうです。古代より百済から仏教同様に伝わったそうです。
江戸幕府は、封建支配の強化の為に、儒学者の林羅山を重用しました。この時代のものが、今も比較的色濃く残っているように思われます。
その林羅山の師匠が、三木出身の藤原惺窩であり、彼に影響を与えたのが、文禄・慶長の役で捕虜となっていた姜沆(かんはん・강항・カンハン)です。
三木市細川町の藤原惺窩像
韓国全羅南道霊光郡内山書院姜沆像
韓国全羅南道霊光郡内山書院 姜沆の故郷。
「看羊録」という姜沆が書いたと言われる本を見ると、確かに秀吉のことを賊魁と書いたりもしています。ですが、三木合戦の前に秀吉が一人で三木側の陣内に入って長治公を説得しようとしたこと、秀吉を討つチャンスにも関わらず、長治公は秀吉を逃したことなど、長治公の人徳がある部分や、秀吉の肝の据わったさまも淡々と書かれています。
・仏教の受容と伝達
全羅南道霊岩郡法聖浦
この地にインドの僧摩羅難陀が到着し、山奥に仏甲寺を建てたと言われています。伝説ではここに百済の仏教が花開き、やがて日本にも伝わっていったと思われます。
面白いのは仏甲寺と内山書院は近い場所にあり、姜沆は仏甲寺にも文章を書いているそうです。
藤原惺窩が元々仏教僧であったように、儒仏習合からは抜け出せない一面があったのかもしれないし、そこに良さがあるのかも知れません。
今回は主に三つの例をあげました。全羅南道は伝統的に文在寅大統領の属する民主党の勢力がつよいところです。そんな中でも、本当に親切にしてくださった方がたくさんいました。政治的には対立しているところもありますが、祭文化のルーツの一つがある国だということに変わりはありません。政治を超えて差別的な発言をすることは、自分の屋台に唾を吐くようなものだと思う今日此の頃です。
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