●夏の祭
大阪や堺では地車や布団太鼓が出る祭は秋だけでなく、夏にもあります。そして、布団太鼓、屋台や地車が活発に動いていた幕末には、その庶民文化の中心地となったこともあり、優れた彫師を多数輩出した地域でもあります。
●貝塚市感田神社の夏祭の太鼓台
感田神社は浄土宗本願寺派願泉寺の寺内町の現社地に、南部の海塚村の牛頭天王、菅原道真を勧請し、天照大神を中心として三柱の神として祀ったと伝わっています。管理は境内に寺院があった天台宗の宗福寺の僧がおこなっていたそうです。17世紀には社殿ができており、文化時代に社殿がやけ、翌年再建されたそうです。つまり、江戸時代には感田神社の姿は現れており、このころあたりに太鼓台が動き出したと思われます。
18世紀の記録ではだんじりが出たという記録があり、これが貝塚の太鼓台の始まりと考える人もいます。一方で、記憶は定かではないのですが、根来寺と関連して寺内の門徒がはしごをかついではやし立てた?という類の伝承ものこっており、それが始めと伝わったりしもしています。
また、感田神社の太鼓台は差し上げを行いません。大阪市大阪天満宮の催し太鼓が差し上げをしなかったり、姫路市で記録上の最古級のもなである松原八幡神社の木場屋台が、村練りの時は差し上げないことを考えると、感田神社の太鼓台もかなり古くからあるものと思われます。
↑宮の前では差し上げなしで、儀式を執り行います
●感田神社の太鼓台の屋根
・まら
屋根の上についている二本の棒は「まら」と呼ばれています。「まら」は男根を意味しますが、二本あるのは、蛇の男根が二本あること(後述吉野氏の著作)と、感田神社の祭神に素戔嗚尊がおりオロチ・大蛇を退治した祭神であること、感田神社の中央の祭神は天照大神ですが、日程的には祇園祭の日程であり素戔嗚尊の祭の意味合いが強いことを考えると納得がいきます。
・伊勢神宮外宮刺車紋との類似
尾関明氏は「新居浜太鼓台」において興味深い指摘をされました。尾関氏が参考にしたのは吉野裕子「陰陽五行思想と日本の祭」(人文書院)1978(ただしリンク先は2000年再版のもの)です。その指摘によると、伊勢神宮外宮の刺車紋と似ているとのことです。そして、吉野氏は先述の著作において、伊勢神宮内宮が不動の北極星・天皇をさすのに対し、刺車紋を擁する外宮は北斗七星を指すとしています。
また、北斗七星の柄杓に水を入れ内宮に供物を捧げるのを意味すると思われる儀式が十一月や二月、九月に行われていると書いてあった「はず」です。ただ、伊勢神宮外宮と内宮の儀式は秘儀であり、こらが北斗七星と北極星を即いみするものであると当時の貝塚の人たちがしっていたかどうかはわかりません。
・(考察?妄言?)なぜ伊勢神宮刺車紋と類似したものを持ち出したのか
感田神社は天台宗の宗福寺が管理していました。比叡山延暦寺のお膝元である日吉大社は北斗七星と習合した七神をまつっていました。ただ、伊勢神宮外宮や刺車紋が北斗七星を意味すると当時の貝塚の民衆や為政者が考えていたかどうかはわかりません。
↑滋賀県大津市日吉大社東本宮
しかし、江戸時代の貝塚は幕府直轄地・天領となっており、当時の天台宗は、幕府が南光坊天海ら天台僧を使って、各地に「東」照宮を建立し、皇祖神天照大神と幕府将軍の同一化とも言える宗教政策が行われていました。そこで、祇園祭という素戔嗚尊を祭る日に外宮を思わせる太鼓台を出すことで、天照大神と武神である素戔嗚尊を同一化させ、それは、武家政権である徳川家と皇統を同一化させる意味があったのかもしれません。
今回はほとんどがどこかで見たことある文章です。蜘蛛の伝承が北野から祇園へ伝わっていったようです。
●前回の復習 蜘蛛と北野
上記のような伝承が平家物語の剣の巻などにのこっており、跡を辿ると蜘蛛に行き着く、北野に行き着くという伝承となっています。
この類話はやがて、祇園社にも伝わっていきます。
●蜘蛛伝承が伝わる前の祇園社の御旅所設置伝承
元亭三年(1323)頃成立した、社務執行晴顕筆の祇園社の歴史を記した『社家条々記録』によると、
「天延二年六月十四日、被始行御霊会、即被寄附高辻東洞院方四町於旅所之敷地、号大政所、当社一円進止神領也」
とあり、天延二年(974)に御旅所が設置されたとあります。この時点では、蜘蛛の伝承は伝わっておりません。
管見によると、蜘蛛の伝承が祇園会に組み込まれるのは、江戸時代に祇園社に伝わる社伝を集めた『祇園社記』あたりからです。
「当社古文書云、円融院天延二年五月下旬、以先祖助正居宅高辻東洞院為御旅所、可有神幸之由有信託之上、後園有狐堺、蜘蛛糸引延及当社神殿、所司等怖之、尋行引通助正宅畢、仍所司等経 奏聞之劇、以助正神主、以居宅可為御旅所之由被 宣下之、祭礼之濫觴之也、自余以来不交異姓、十三代相続、于今無相違神職也云々、保元馬上 差始之、助正、助次、友次、友正、友延、友吉、友助、助氏、助重、助直、助貞、亀壽丸、顕友」
祇園社に伸びて来た蜘蛛の糸を手繰っていくと現在の御旅所である助正の居宅で糸が終わっており、神託どおりそこを社殿とした。助正の子孫がその社の神主となりそれを世襲しているといった内容の文章です。

●祇園社、北野の蜘蛛伝承
北野は血の跡を辿る伝承、祇園社は糸を辿る伝承ですが、蜘蛛を辿るという点では同系統と言えるでしょう。北野も祇園も牛の神様? それは次回へ
●前回の復習 蜘蛛と北野
-蜘蛛退治と髭切ー
頼光が体調をくずし30日たった日の夜。七尺ばかり(約212cm)の背の法師が縄で頼光を縛ろうとしました。頼光は、膝丸で彼を切り伏せます。しかし、その法師の姿はなく、血の跡があるだけです。よって、血のあとを追うと北野の後ろに大きな塚がありました。塚を掘り返すと、なんと大きな蜘蛛がいました。この時より髭切は蜘蛛切丸と名を変えました。
上記のような伝承が平家物語の剣の巻などにのこっており、跡を辿ると蜘蛛に行き着く、北野に行き着くという伝承となっています。
この類話はやがて、祇園社にも伝わっていきます。
●蜘蛛伝承が伝わる前の祇園社の御旅所設置伝承
元亭三年(1323)頃成立した、社務執行晴顕筆の祇園社の歴史を記した『社家条々記録』によると、
「天延二年六月十四日、被始行御霊会、即被寄附高辻東洞院方四町於旅所之敷地、号大政所、当社一円進止神領也」
とあり、天延二年(974)に御旅所が設置されたとあります。この時点では、蜘蛛の伝承は伝わっておりません。
管見によると、蜘蛛の伝承が祇園会に組み込まれるのは、江戸時代に祇園社に伝わる社伝を集めた『祇園社記』あたりからです。
「当社古文書云、円融院天延二年五月下旬、以先祖助正居宅高辻東洞院為御旅所、可有神幸之由有信託之上、後園有狐堺、蜘蛛糸引延及当社神殿、所司等怖之、尋行引通助正宅畢、仍所司等経 奏聞之劇、以助正神主、以居宅可為御旅所之由被 宣下之、祭礼之濫觴之也、自余以来不交異姓、十三代相続、于今無相違神職也云々、保元馬上 差始之、助正、助次、友次、友正、友延、友吉、友助、助氏、助重、助直、助貞、亀壽丸、顕友」
祇園社に伸びて来た蜘蛛の糸を手繰っていくと現在の御旅所である助正の居宅で糸が終わっており、神託どおりそこを社殿とした。助正の子孫がその社の神主となりそれを世襲しているといった内容の文章です。

●祇園社、北野の蜘蛛伝承
北野は血の跡を辿る伝承、祇園社は糸を辿る伝承ですが、蜘蛛を辿るという点では同系統と言えるでしょう。北野も祇園も牛の神様? それは次回へ
●祇園祭、山鉾の車輪
祇園祭の巨大な山車型山鉾を支えるのは四輪の車輪です。
よくよく見ると、七つに分かれているのが分かります。
円一周360度を7分割すると、 360°÷7=51.4285714....°
1ピースの中心角は51.4285714....°となります。
もし、8分割ならば、360÷8=45° 半分の、半分の、半分といった具合に分ければ、簡単に分けられるのになぜ、このような分け方になっているのでしょうか。
8分割だと、下の図のように割れ目が上下に来るので、重心が割れ目にかかると分かりやすくなります。ですが、7分割の場合、割れ目のところに、接地面、あるいは山鉾本体のどちらかにに割れ目がかかっても、どちらかは割れ目はないので、強度は保てるそうです。
●過去との比較
宝暦の絵(下の管理人模写の絵をクリックすると本物の頁にとびます。)を見ると8分割になっていますので、おそらくですが、山鉾の衣裳が豪華になり始めた文化文政のころあたりに、7分割になっていったのかもしれません。
●鹿沼市も 栃木県鹿沼市の彫刻屋台も7分割の車輪を使っているようです。鯱のボコ天氏が見せていただいた資料から分かりました。
●杉戸絵に描かれた祇園山鉾
祇園会の山鉾は屏風や本などに描かれてきました。そして、一年中祭り気分を味わいたいという思いがあったのかどうかは分かりませんが、修学院離宮では杉戸絵にも描かれています。
ただ、修学院離宮は宮内庁管轄の建物で手続きが事前申し込みが必要で、じつはまだ行ったことがありません。
しかし、杉戸絵の山鉾は他にも見ることができる場所があります。それが青蓮院です。青蓮院は祇園社の北の知恩院の北にあり、さらにその北には、少し前に記事で書いた祇園感神院新宮である粟田神社があります。いわば、祇園信仰圏ともいうべき京都東山三条四条間の寺院ですので、杉戸絵があるのもうなづけます。


●青蓮院の杉戸絵
調査済みの可能性が大ですか、青蓮院杉戸絵の制作年代を描かれた山鉾から考察してみました。
手がかりにしたのは長刀鉾の杉戸絵ですが、撮影禁止だったので撮影していません。
長刀鉾の形状は下の横山崋山が描いたものと類似点の多いものでした。

屋根を見ると鯱ができておらず、鯱ができたのが化政期だときいているので、それより以前、遅くとも1800年代前半となると思われます。
長刀鉾と山一基が撮影禁止場所にあります。
そして、霰天神山と白楽天山が撮影可能な廊下にあったので撮影しました。


●重い?重くない?
ここで、さてここで考えたいのは、山からどのような信仰をもっていたか?とかではありません。美術的にあれこれ言ったり、民俗学の主流となってるような話題もしません。表題にある通り、重いか重くないかです。

この絵を見る限りでは舁き棒にあたる部分がほとんどありません。しかも二本の棒同士の幅は本体幅よりも狭くなっています。
もし、これが本当の当時の長さならば凄く担ぎにくかっただろうと思われます。また、昔の人は力が強かったというのも、うなづけます。
こちらを見ると、8人で担いでいます。楽しそうに担いでいますが、高い位置に重い人形や作り物があるので、少しでも左右に傾くと、重く肩にのしかかっていたのではないでしょうか。
祭をする人の視点で昔の山を見ると新たな発見があるものですね
祇園会の山鉾は屏風や本などに描かれてきました。そして、一年中祭り気分を味わいたいという思いがあったのかどうかは分かりませんが、修学院離宮では杉戸絵にも描かれています。
ただ、修学院離宮は宮内庁管轄の建物で手続きが事前申し込みが必要で、じつはまだ行ったことがありません。
しかし、杉戸絵の山鉾は他にも見ることができる場所があります。それが青蓮院です。青蓮院は祇園社の北の知恩院の北にあり、さらにその北には、少し前に記事で書いた祇園感神院新宮である粟田神社があります。いわば、祇園信仰圏ともいうべき京都東山三条四条間の寺院ですので、杉戸絵があるのもうなづけます。


●青蓮院の杉戸絵
調査済みの可能性が大ですか、青蓮院杉戸絵の制作年代を描かれた山鉾から考察してみました。
手がかりにしたのは長刀鉾の杉戸絵ですが、撮影禁止だったので撮影していません。
長刀鉾の形状は下の横山崋山が描いたものと類似点の多いものでした。

屋根を見ると鯱ができておらず、鯱ができたのが化政期だときいているので、それより以前、遅くとも1800年代前半となると思われます。
長刀鉾と山一基が撮影禁止場所にあります。
そして、霰天神山と白楽天山が撮影可能な廊下にあったので撮影しました。


●重い?重くない?
ここで、さてここで考えたいのは、山からどのような信仰をもっていたか?とかではありません。美術的にあれこれ言ったり、民俗学の主流となってるような話題もしません。表題にある通り、重いか重くないかです。

この絵を見る限りでは舁き棒にあたる部分がほとんどありません。しかも二本の棒同士の幅は本体幅よりも狭くなっています。
もし、これが本当の当時の長さならば凄く担ぎにくかっただろうと思われます。また、昔の人は力が強かったというのも、うなづけます。
こちらを見ると、8人で担いでいます。楽しそうに担いでいますが、高い位置に重い人形や作り物があるので、少しでも左右に傾くと、重く肩にのしかかっていたのではないでしょうか。
祭をする人の視点で昔の山を見ると新たな発見があるものですね
前回、源氏伝来の蜘蛛の血も、鬼の腕も悉く、「北野」に行き着いたことを書きました。そのことにより、膝切、髭切は蜘蛛切、鬼丸と名前を変えました。鬼も蜘蛛もなぜ北野に落ちたのかがわかるのは、頼義の代のことです。
頼義は二本の刀を受け取り、奥州に乱の平定に向かいます。九年間戦いののち、安倍貞任、宗任の軍にに打勝ちました。貞任の首を取り、宗任は捕まえて都に戻ります。貞任が九尺五寸(約288センチ)の大男であるのに比べると、宗任はずっと小さく六尺四寸(約195センチ)でした。。
頼義の宿にいましたが、見に来たものはこうとい梅花を一枝手折ってこうといました。
「宗任、これはいかに(感じるか歌を読めという意味?)」
宗任取はこう答えます。
我が国の梅の花とは見たれども大宮人はいかが言ふらん
(我が国でいうの梅の花のようだけど、都の人はなんというののだ?)
となんとも素朴な歌を読みます。
すると皆しらけてぞ帰りました。
宗任は筑紫へ流されてしまいますが、子孫繁昌して松浦党になったとのことです。

多可郡糀屋稲荷 森本屋台の菅公遊歩の場
梅の花で歌を読んだこと、筑紫に流されたことは菅原道真を想起させます。ただ、道真は見事な歌を歌うものの不遇の死を遂げます。宗任は流された地ではあるものの、天寿を全うしました。
このような対比が平家物語劔の巻には組み込まれているようです。

↑大阪天満宮だんじり 筑紫天拝山の菅原道真
頼義は二本の刀を受け取り、奥州に乱の平定に向かいます。九年間戦いののち、安倍貞任、宗任の軍にに打勝ちました。貞任の首を取り、宗任は捕まえて都に戻ります。貞任が九尺五寸(約288センチ)の大男であるのに比べると、宗任はずっと小さく六尺四寸(約195センチ)でした。。
頼義の宿にいましたが、見に来たものはこうとい梅花を一枝手折ってこうといました。
「宗任、これはいかに(感じるか歌を読めという意味?)」
宗任取はこう答えます。
我が国の梅の花とは見たれども大宮人はいかが言ふらん
(我が国でいうの梅の花のようだけど、都の人はなんというののだ?)
となんとも素朴な歌を読みます。
すると皆しらけてぞ帰りました。
宗任は筑紫へ流されてしまいますが、子孫繁昌して松浦党になったとのことです。

多可郡糀屋稲荷 森本屋台の菅公遊歩の場
梅の花で歌を読んだこと、筑紫に流されたことは菅原道真を想起させます。ただ、道真は見事な歌を歌うものの不遇の死を遂げます。宗任は流された地ではあるものの、天寿を全うしました。
このような対比が平家物語劔の巻には組み込まれているようです。

↑大阪天満宮だんじり 筑紫天拝山の菅原道真