お寺のオバサンのひとりごと

心のマッサージにお寺へ行こう!

常識 対 常識

2009年11月10日 | 雑感
 仏教でいう「我執」
 「自分の思い」に「執着」することで、

 我執があるがゆえに、ままならぬことに ますます 苦しむ 

 「我執」は、苦しみをうむ「もと」
 「我執」を離れることを説くのが仏教です。

 こう言うと、
「何だ、仏教は、脱・個性で、自分の意見をしっかり持たない。個性も重んじない。ただ周囲に妥協して生きる教えなのか~
と、誤解されるかもしれませんが・・・

 いえ、そうではありません。

 そもそも、私たち一人ひとり、顔形が違うように、一人ひとり感性も違います。
生まれ育った「価値観」も異なります。
 つまり、「常識だろう」と思うものが、各人違ったりします。

 同じものを見ても、同じ話を聞いても
 一人ひとり、見方、感じ方が違う

 私たちは、充分「個性的」なのでありましょう。

 「個性」がダメなのでも、
「自分の意見をしっかり主張する」のが、いけない のでもなく

 「みんな一人ひとり違っていて、当たり前なんだ」 
 「でも、『自分の思いが正しい』と執着してしまう自分がいるんだ」

と、己の「我執」を「常識」と「正当化」する
 「我執」の 危うさ を認識すること  

 それを仏さまが教えてくださっているように味わっております。 

 

 
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修行?

2009年11月08日 | 雑感
 昨晩は、昭和22年生まれ以下の若手(お寺の世界では若手)男性による、

お寺の敷居が高くならないよう、
とりあえず、
仏教抜きでお寺に集まる会

「若っかもんで呑もう会」でした。

11名の出席 + 住職&若夫婦(若夫婦は初参加)

 昨夜の目玉となるお酒は、先日お世話になったK組のH寺さんからお土産にいただいた有名なお酒「鍋島」

 これまたお土産にいただいた有明海の珍味「うみたけの粕漬け」も酒の肴に楽しくお酒を呑んでいただきました。

 さて、恒例となった食後の後片づけ。
 私が強制したわけではないけど、初回から、そういうことになってしまった。
 うむ、お寺のオバサンの無言の指示を感じられたのか・・・

 奥様が体調不良の時以外、家事を絶対しないであろう諸氏が、パタパタと動かれるのを見るのが、これまた楽しい  皆様、有り難うございます

 某氏が仰った。
 「妻に車の迎えコールをしたら、『片付けは済んだの』と一番に聞かれました。法専寺で後片づけをするのは、修行だと思っています」 

 おお、そう言えば、「男性が家事をする時間が一番短い県」の ランキング、堂々1位が、佐賀県だった。

 
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相手へのいたわりの心

2009年11月06日 | 雑感
 今朝の佐賀新聞に「相手へのいたわりの心」と、題して、子ども家庭教育フォーラム代表 富田富士也氏のコラムがありました。
 書き出しの箇所をご紹介。

 努力は実を結ぶ、とは言えないのが、世の無常。うぬぼれも、失望も、ほどほどが大切です。懸命な努力にも報いが保障されない世に身を置くだけで、人は十分に努力しています。だからこそ、人の痛みを思いやる心が、ほのぼのした人間関係をはぐくみます。

 有能で順風満帆の方の中には、
「うまくいかないのは、本人の努力が足りないからだ
「自己責任

 と、冷たく言い放つ方が、おられるのですが、

 世の中、もともと不公平。
 
 大金持ちの家に生まれるか、
 愛情豊かな両親の元に生まれるか
 美男美女に生まれるか、
 健康体に生まれるか
 運動能力が高いか
 物事の処理能力が高いか
 記憶力がいいか・・・などなど
 
 そして、「努力できる」そして、結果「うまくいった」 というのも、
 もちろん、頑張った人は偉いのですが、
 
 それは、本人が (たとえ逆境の中であろうと)
「頑張ることのできる能力」 に恵まれていたから 
 頑張ることのできる「縁」に 恵まれていたから

 全て「縁」次第。

 そういう意味で、「うぬぼれも失望もほどほど・・・」なんだと思います。

 今、たまたま、順調で、能力に恵まれておられる方は、

 今、つらい立場にいる者に、

「努力が足りん」とか「自己責任」と
上から目線で冷たく言ったり、

「自分に関係ない」と無視することなく、

いたわりの心を 

と、コラムを拝読いたしました。

    
 
 

 
 
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能力テスト

2009年11月04日 | 雑感
 今朝、朝ごはんの支度をしている私に、寺務室から夫の声が
「おーい、パソコンがおかしいそ~ おまえ、何か変なところ さわってないか~
 何かあると、すぐ人のせいにしたがるのは、夫婦お互い様なんですけど・・・

 突然、パソコンの画面が出なくなりました 

 業者さんに見ていただいたところ、ディスプレイが壊れただけだったようで、一安心。(今、業者さんのディスプレイをお借り中)

 さて、パソコンと言えば、
きょう新聞にミクシイの「サンシャイン牧場」にまつわる記事がありましたが、
私も最近、マイミクさんにお誘いいただいたので、娘の指導のもと、牧場で野菜や花、動物たちを育てています。

 その他、ミクシイには、○○能力テスト みたいなのが、たくさんあって面白いのですが、

 私、難しい漢字が読めない
 絶対音感、ない
 聴力テストも、娘が平気で聞こえる高い音(12,000ヘルツ)が全く聞こえない
 
 母親似の毒舌娘から言われた。
「お母さん 目も悪く、耳も悪く、頭も悪く・・・いいところないねえ

 はい、私は能力テストは遠慮して、牧場で、のどかに遊ぶくらいが向いております。  

 
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お通夜の帰り

2009年11月03日 | 雑感
 先日、ある方が
「『墓参りの帰りに』とか『お通夜の帰りに』はねられた(交通事故に遭った) ということをよく聞くけれど、あれは、どういうことですかね
と、言われた。

 どういう意味で仰ったのか、真意は、定かではありませんが、

 事故にあった方が、仏事にまつわることをしたのに、何故、事故に遭わなければならなかったのか

 つまり、いいことをしたのに、何故、事故に遭ったのか
 あるいは、死者が、あの世に引っ張ったのではないのか

と、言うニューアンスを某氏の言葉に感じました。

 う~ん、墓参りに行ったから・・・お通夜に行ったから・・・といって、
仏さまが、事故に遭わないようにしてくれる・・・ということは、残念ながらありません。
 行いの悪い人が事故に遭うわけでも、
 いい人が事故に遭わずにすむ ということもない。

 どうして、事故の当事者が、その人であったのか それもわかりません。考えても答は出ません。
 

 本人の あるいは、相手の不注意 または、予想不可能な複雑な『縁』によって、事故は起きます。
 

 お通夜の帰りの事故
 もちろん、故人があの世で寂しいから、事故をしかけた(知人をあの世に引っぱった) ということは、ありえません。

 お通夜は、暗い夜道を、黒服をまとって歩いています。つまり、忍者と同じ状態であります。

 車からは、人影が認識しにくく、事故の確率は高いと思われます。 

 お互い、お通夜の帰り道は、車に気をつけましょう
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念仏を称える

2009年11月01日 | 仏教
 きょうは午前中、11月仏教壮年会の例会 と 例会終了後、グランドゴルフ大会 の予定だったのですが・・・
 あいにくの雨

 昨日まであんなによい天気だったのになあ
 しかも、午後から晴れてきちゃって・・・

 さて、仏教壮年会例会で出た質問

 「信心正因 称名報恩」

 浄土真宗で称える念仏は、自分の行として称えるものではなく、信心をいただいて、阿弥陀如来に感謝の気持ちで称えるもの

 ということですが

 「念仏は称えているのですが・・・まだ、今ひとつ、信心というところまで、自分の気持ちが至らないままです。そんな称え方でいいのでしょうか」とY氏。

 はい、いいんじゃないですか

 阿弥陀さまの「本願」(私を覚らせたいと願われる仏心)を 

 はい、そうですか、と、なかなか 有り難く思わないのが、凡夫(フツーの人間)であります。
 
 何の修行も、心からの信心も 間に合わない凡夫だからこそ、
凡夫が口に称えやすい「南無阿弥陀仏」と届いてくださっているのでありましょう。

 仏心を有り難くいただいた上での 念仏が 本当であり、理想でしょうが、
「形ばかり称えている」と思われる 念仏 も 仏さまが はたらいてくださっているからこそ、口に出る。

 本願を有り難く思わない私なのに、こうして念仏を称えさせていただいている。

 出るはずのない念仏が私の口から出る

 そのこと自体を有り難く思えば
 それが「称名報恩」なのではないでしょうか

 
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