お寺のオバサンのひとりごと

心のマッサージにお寺へ行こう!

何のために法事をするのか? その2

2009年08月29日 | 仏教
 前回の続きです。

 私の話を聞いて、
「ああ、今まで、思い違いをしていました」
と、うなずいてくださる方がおられる一方、

 「『仏事が故人のためではなく、自分のため』というのは、自分のことばかりで、故人に対して、何だか冷たい感じがしますが・・・」と仰った方があります。

 まず、その方は、「仏さま」という言葉の意味を誤解されているように思います。

 おそらく、その方にとって、
 
「仏さま」という名称は、単なる「故人の死後の別称」「死者の尊称」ぐらいに思っておられるのかもしれません。

 「仏さま」って、覚りを得た方 です。

 完全な智慧と慈悲の「はたらき」となられた方です。

 その「仏さま」に対して、欲も多く愚痴ばかりの私ごとき人間が

「亡くなった人は、かわいそうだから、法事をしてあげる。仏事に参詣して、故人を慰めてあげる」と思うこと自体、傲慢であります。

また、もう一つ誤解されておられるのが・・・

つづく・・・


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何のために法事をするのか?

2009年08月28日 | 仏教
 故人のお葬式の後、

 初七日、二七日(ふたなのか)、三七日(みなのか)、四七日(よなのか)、五七日(いつなのか)、六七日(むなのか)、七七日(なななのか)=満中陰(まんちゅういん)

と、毎週、ご遺族と一緒にお勤め(仏事を)します。

 その後は、百ヶ日(ひゃっかにち)、初盆、一周忌、一周忌の翌年に三回忌、六年目に七回忌・・・と続いていくのですが・・・

 たいてい、皆さん、こういう仏事は、「亡くなった方のためにしてあげている」
「亡くなった方にお経を聞かせてあげている」・・・という思いが強いようで・・・

で、私オバサンは、住職代理で、仏事にお世話になる(お参りさせていただく)たびに、

「故人は、今は、阿弥陀如来と同じはたらきの尊い『仏さま』となられて
私を心配し、覚りに導こうと、はたらいてくださっています。

その『仏さま』の御こころに気づき、私一人一人が、仏さまに心をあわせ、手を合わせるために行うのが仏事です。

 つまり、仏事は、亡くなった方のためにしてあげるのでなく、私がさせていただくものです。

 故人の年回忌などの仏事をご縁として、
普段、なかなか、仏さま(真如)に心を合わせることもない私たちが、
こうして、仏さま(真如)の前に座らせていただき、手を合わさせていただいています。
 きょうの仏事も、『仏さま』からのご催促であった。

 私も 皆様とご一緒に このご縁に遇わさせていただいたことを有り難く存じます」

と、お話させていただきます。

それを聞いた参詣の方が・・・

つづく・・・・

 


 
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忘れるもの、忘れられないもの

2009年08月26日 | 本紹介
 香山リカさん著「しがみつかない生き方」幻冬舎新書

にこういうエピソードが紹介されていました。p103

 ある患者さんの言葉
「ほかの人たちは、昔のいやのことを簡単に忘れられるのでしょう? そうでなくても、時間がたてばいやな記憶も薄れていく、って言いますよね。私は違うんです。中学のときに先生から言われたひとこと、親からの言葉、全然忘れられません。いつも、どうしてあの人はあんなひどいことを言ったんだろう?と考えているんです」
 しかもその人は、考えるたびに悲しさやつらさ、怒りまでが、まさにいま、そう言われたかのようによみがえってくる、とも言うのだ。
 この人に「いやな記憶が薄れないのだとしたら、うれしい記憶も同じですか?」と尋ねたら、けげんな顔をされた。

 ああ、私もそうかもしれません。
 自分が人に迷惑かけたことは、すぐ忘れるが、人から傷つけられたことは、いつまでも怨みがましく覚えている傾向が・・・

 つらいことばかり、思い出して、暗い顔をして生きてゆくより、うれしい記憶をその時のまま、ありありと思い出して、幸せな気分で生きてゆけたら、いいのですが・・・
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お墓の意味

2009年08月25日 | 仏教
 今回、ウチの住職さんの お盆の法話 の中で

 亡くなった方は、阿弥陀仏と同じはたらきの「仏」となっておられるのですから、浄土で「安らかに眠って」おられるわけではありませんし、「お墓の中にじっと眠って」おられるわけでもありません。
 「仏」となられた、その智慧の眼で、私たちをご覧になれば、ハラハラして、とても安らかに眠っちゃおられない。いつも、私たちを心配して見まもり、覚りに導こうとはたらいてくださっています。

 それを聞いた若い人の 疑問 

 「故人が『お墓に眠っていない』と言うのならば、何のためのお墓なのか

 う~ん、そうですね。住職がお伝えしたかったのは、「霊魂としてお墓にじっと宿っているわけではない」ということです。

 そもそも、お墓は、故人の「終の棲家」ではありません。
 故人自身は、今は、仏と成って、お浄土の人ですから・・・

 仏の教えから申せば、「自分のお墓」はどうでもいいことです。
 埋葬してもらわなきゃ、化けて出るわけでも、霊となって、タタルわけでもありません。

 じゃあ、お墓(納骨場所)は何のためにあるのか

 お墓は、後に残った者が、故人を偲ぶ「縁」 

 大切な人を失って・・・唯一、残るのは、その方の「お骨」です。

 「大切な人を大切に偲びたい」遺族、知友にとっては、大切な故人の「お骨」を捨て置く気分にはならないでしょう。大切に偲びたいでしょう。

 お墓とは「後に残された人のためのもの」です。

 遺産だけもらって、

 お骨は要らない、仏壇も要らない、仏の教えも要らない、まして、お寺と付き合うなんぞ、そんな面倒なこと、とんでもない と思う方が増えているようで・・・

 そんな方にとって、故人は、死んでお終いなんでしょうか 故人はどこに行かれたのでしょう

 残された者が、仏の教えに耳を塞ぐことは、「仏」となられた故人の思いを拒絶することで・・・一番、無礼で、仏さまを悲しませることだと思うのですが・・・
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お寺の婚活 その6

2009年08月24日 | 雑感
 普通の家庭に生まれ育った一人息子さんをご両親から強奪?した娘の結婚ですが

 私たち夫婦が「長女はお寺の跡取り娘だから、養子に入ってもらわないと結婚は許さん」と、だだをこねたわけではありません。

 娘が彼との話し合いで決めてくれたことです。

 私が娘から聞いた時は「結婚を考えている人がいる。お寺に来て、ウチの姓を名のってもいいと言ってくれている」という。 私たち夫婦にとって「エッ 先方はそれでいいと仰っているの」と、
こんなに有り難いことはない喜びでした。

 しかも、見せてもらった彼のスナップ写真を見て、
「あら~、何とやさしそうな青年だろう。布袍(ふほう:浄土真宗のお坊さんの定番スタイルの衣)・輪袈裟 がピッタリ似合いそう
と、私、一目で、歓喜したのであります。


 「長女が、自分でお寺の後継者になることを決断した」と、言っても、長女にとって
「自分がお寺を継がなきゃ」と思ったのは、
 できれば、「我が子に、お寺を継いでもらいたい」という両親(住職夫婦)の気持ちがわかっていたからでしょうし、
 ご門徒さんにも、期待されていることを十分承知していたからでしょう。

 今回、「お寺に生まれたからといって、当然のように住職を継ぐのはおかしい」
という一文を目にした時、ドキッとして、反省させられました。

 というのは、(門徒役員さんには前もってご相談しましたが)
 ご門徒さん全体に対して
「長女夫妻を法専寺の後継者夫婦にさせていただいていいでしょうか
という承諾ではなく、
 当然のように、「長女夫婦が後継者となることに決まりました」という報告をしたからです。

 「異議あり」の方は、おられなかったかもしれませんが、
「お寺」は、ご門徒さんの「お寺」です。

 その「お寺」を預かっている住職夫婦であるならば、
「当然のように子どもを後継者と決める」のは、「お寺を私物化している」のかもしれないな・・・と。

 
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お寺の婚活 その5

2009年08月22日 | 雑感
 30代は、「お寺に住む者」として、建前で言動していた私も、
 40代前半、得度(とくど:僧侶になること)と、40代後半には教師教修(住職になることができる資格?)のご縁に遇わせていただき、今は、お寺に縁あって、本当によかった、有り難いことだった と本音で思っています。
 
 子どもは親(住職夫婦)を冷静に見ています。
 いくら、小さい時から、「跡取り」と目され、育てられたとしても、

 親が、心から お寺の生活、仏教 を喜んでいない・・・つまり、本音と建前のギャップがありすぎて、陰で愚痴ばかり言っていたのでは、「お寺の後継者になりたい」とは思わないでしょう。

 それに、自分の子どもさえ、仏教を歓ばないような育て方をしていながら、
ご門徒さんには、エラソウに「お参りしてください。聴聞が大切ですよ」とは言えませんよね。

 私は、本当に精神年齢の低い、未熟な母親なので、立派な子育てなんぞは、全くできておりませんが、
 娘達にとって
「お調子者の母だが、何だかお寺のことを喜々として頑張っているなあ~」
とだけは思ってくれていたようです。

まだまだつづく・・・


 
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お寺の婚活 その4

2009年08月21日 | 雑感
 私自身、結婚した当初、あまり「お寺、お寺」と言われると、

 「私は夫と結婚したのであって、『お寺』と結婚したのではありません

と、言いたい気分でした。

 でも、まあ、お寺に嫁に来たのは事実なので、仕方なしに、仏教の勉強を始めたのですが・・・ それでも、
法話聞いても、本を読んでもチンプンカンプン。よそのお寺の坊守さん方を拝見していて・・・
 「ああ、皆さん、教えを喜んで、お念仏を称えていらっしゃるようだけど、私は、かっこだけ、建前だけで言動していて、何が有り難いんだか、わからない・・・という思いがありました。

つづく・・・
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お寺の婚活 その3

2009年08月19日 | 雑感
 お寺の婚活 その1 で、ご紹介しましたが、

 お寺の息子(娘)が 当然のように 住職(親の後)を継ぐのは おかしい

というご意見に対して・・・

 あらためて、そうだなあ~ とも、思う。
 「お寺に生まれた」というだけで、全くやる気のない(自身が仏教を全然有り難く思っていない)者が、形ばかり、住職を継いだのでは、ご門徒さんにとって、これほど迷惑なことはありませんから・・・

 でも、一方、

 生まれた時からご門徒さんとともにあって、子どもの時から「後継者」として、ご門徒さんに育てていただいて・・・ご門徒さんと共に成長して・・・
 また、「住職」となってからも、なお、ご門徒さんに育てられることを いいなあ 有り難いなあ・・・と思います。

 若い時は「仏教の尊さ」「お寺に生まれた有り難さ」もわからず、
イヤイヤ、仕方なく、お寺を継いだ方で、
今は、素晴らしい ご住職、布教使さんになっておられる方は、たくさんおられます。

 だから、「お寺に生まれたからといって、当然のように住職を継ぐのはおかしい」というご意見には、うなづく面もあり、「イヤ、そうでもありませんよ。いい面もありますよ」と思うのです。

 


  
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五濁悪世

2009年08月17日 | 仏教
 昨日の新聞で、映画監督の松林宗恵氏の訃報を目に致しました。

 松林宗恵氏は、浄土真宗のお寺の方で、ご自身、僧侶でもあられました。

 あれは、何年前でしょうか? 5年前? 私の記憶が正しければ(最近、いや以前から、記憶があやふやなので自信がありませんが・・・)
市内G寺さんでの記念講話会で、松林宗恵氏のご法話を拝聴したことがあります。

 確か「五濁悪世」(ごじょくあくせ)についてお話くださったと記憶しています。

 「五濁悪世」は、「仏説阿弥陀経」の最後頃に出てきますが

 劫濁(こうじょく):時代の濁り
 見濁(けんじょく):思想の濁り
 煩悩濁(ぼんのうじょく):煩悩による自己中心の濁り
 衆生濁(しゅじょうじょく):人間の質の低下
 命濁(みょうじょく):寿命が短くなること

 お釈迦様の時代~現代まで、長い時間が過ぎました。

 科学は進歩し、便利になり、情報はあふれていますが
 人間は傲慢になる一方で、 
 現代こそ「五濁悪世」なのだと、自覚しています。
 
 「命濁」・・・今、日本は平和で、世界一の長寿国ですが
        戦争、汚染・・・によっては、寿命が短くなるのであります。


 
 


 

 
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お盆

2009年08月14日 | 行事・案内
 日本各地、災害続きです。
 いつ、どうなるか、全く予測できないお互いです。

 お盆も明日まで。

 13日まで、初盆をお迎えのお宅 と 盆経を希望されるお宅 へ回っていた住職ですが、きょう14日から明日まで2日間は

 法専寺で 盂蘭盆会(うらぼんえ)を勤めています。

 10数年前の前住職も元気だった間は、各お宅に、男二人、盆経にお参りに伺っていましたが、住職一人になってからは、初盆と自宅への盆経を希望されるお宅以外のご門徒の皆さんには、お寺の「盂蘭盆会」においでいただく形式に変えました。

 この形式に変えてよかった と 思うのは

 普段、なかなかお寺の法座においでにならない若い方が、たくさんお参りくださること
 (親子3代、あるいは親族そろって、あるいは親戚同士、お寺で待ち合わせて、
法座で一緒に「正信偈」をおつとめして、お話を聞いていただける)

 ご門徒さんの賛成意見としては

「盆経においでいただいていた時は、何時、お寺さんがお参りに来て下さるか・・・と、やきもき待って、外出しづらかったが、今は自分の都合でお参りできるので、この形式が有り難い」

「住職さんに自宅に来ていただいて、あわただしくお経を読んでいただくよりも、家族揃って、おつとめできて、お話もゆっくり聞けて、有り難い」

あるいは
「息子夫婦、孫達と盂蘭盆会の日時を決めて、待ち合わせ、盂蘭盆会の法座の終了後に、一同で会食会をしています」
というご一家も。

 そして、きょう、新たにI氏の賛成意見
「ここにお参りすることで、みんな(法専寺の仲間一同)に遇えるのが、いい

 そうです。お盆は、阿弥陀様、ご先祖様に遇うことも、もちろんですが、法専寺の門徒仲間(普段会えない、なつかしい遠方の方々とも)と一緒に集うこと も 大きな意味がありそうです。

 きょうは、たくさんの方々にお参りいただきました。

 明日も午前10時 午後1時半 から 盂蘭盆会 の 法要をつとめます。

 お子さんには、「法専寺せんべい」以外に、お菓子のプレゼントあり。

 どうぞ、ご家族お揃いでお参りください 


 
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