かって、無差別殺傷事件を起こした青年が自分を表現したのが、
「透明な存在」
彼は、誰も自分の存在に気づいてくれない
・・・という意味で、そう表現した想像します。
孤島に一人の孤独感より、大勢の人々の中での孤独感が、より強く、つらいもの。
愛される
ことが幸せであるのは、当然ですが、
憎まれる
ってことも、まだ相手に「自分」という存在を認められているだけマシで、
何の対象にもならず、気づかれず、
「無視」され続けるというのが、一番悲しいことなんだと思います。
しかし、「透明な存在」と、言った彼こそ
昨日、ご紹介したように
「透明」どころか、最も「自分濃度が高い」人だったのでしょう。
「自分がもてたい」「自分が注目されたい」自分が
自分が
・・・
果たして、そう思う「自分」は 他者のことを無視せず、人の痛みを想像することがあったのか
・・・
「自分濃度が高い」と、より一層、自分も周囲も傷つくのでありましょう。
そう言う意味で、仏教・・・目指すところは、自分の濃度を薄めること・・・
その究極が、「透明な自分」(自己執着からの開放)
それは、自分が消えてなくなるってことではなく、
他と共にあること、自他の境がないこと である と味わっております。

彼は、誰も自分の存在に気づいてくれない

孤島に一人の孤独感より、大勢の人々の中での孤独感が、より強く、つらいもの。

愛される

憎まれる

何の対象にもならず、気づかれず、
「無視」され続けるというのが、一番悲しいことなんだと思います。
しかし、「透明な存在」と、言った彼こそ
昨日、ご紹介したように
「透明」どころか、最も「自分濃度が高い」人だったのでしょう。
「自分がもてたい」「自分が注目されたい」自分が


果たして、そう思う「自分」は 他者のことを無視せず、人の痛みを想像することがあったのか

「自分濃度が高い」と、より一層、自分も周囲も傷つくのでありましょう。
そう言う意味で、仏教・・・目指すところは、自分の濃度を薄めること・・・
その究極が、「透明な自分」(自己執着からの開放)
それは、自分が消えてなくなるってことではなく、
他と共にあること、自他の境がないこと である と味わっております。
