お寺のオバサンのひとりごと

心のマッサージにお寺へ行こう!

慢(まん)

2007年01月31日 | 仏教
 ひろさちや著「宗教の読み方」すずき出版 に書かれていることからご紹介。

 仏教では、自分と他人を比較しようとする心のはたらきを「慢」と呼んでいます。自分と他人を比較した時に起こる、心の驕り高ぶりを指します。
 そして、具体的に「慢」を四つに分類しています。

1.慢   自分より劣った者に対して自分のほうが優れていると思う 驕り

2.過慢  自分と同等の者に対して自分の方が優れていると思い、自分より優れた者に対して自分と同等だと錯覚する 買いかぶり 

3.慢過慢 自分より優れた者に対して、なおも自分が優れていると錯覚する慢心

4.卑慢  自分よりすぐれた者に対して、ほんのちょっと自分が劣っていると思うこと 

 仏教が言っていることは「慢」自体が煩悩ということです。
 
 自分と他人を比較すること自体が、間違いですよ
 
 比較をはじめると慢心がおこったり、嫉妬の感情がおこったりしますよ
 
 自分の作り出した「感情」で、人を傷つけたり、自分自身が、より苦しむことになりかねませんよ

 ところで、仏教では「我慢」もよい言葉ではありません。仏教でいう「我慢」とは、仏教辞典によると、
 「自己の中心に「我」があると考え、その「我」をよりどころとして、心が憍慢であること」となっています。

 仏教では耐え忍ぶことは、忍辱(にんにく)と言います。

 「私が一人、あんた達のために耐えてあげているのよ 」と、思っている方・・・それは、「忍辱(にんにく)」じゃなくて、やはり「我慢」かも・・・



コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

子どもを護る教育

2007年01月30日 | 雑感
 先日60代のY氏が話されていたこと。

 昨今、子ども達の通学・下校時の事件多発のため、知らない人に用心するよう教え込まれた子ども達。
 
 ある夕方、Y氏が散歩していたら、前を歩いていた小学生の女の子が、Y氏の方をチラチラ振り返り、やがて逃げるように走り去った。
 「『おいおい、僕はそんな怪しい男ではないよ』と言いたくなって、ちょっと悲しかった」と。
 ちなみにY氏は数年前まで高校の教職につかれていた方です。
 
「僕たちが子どもの頃は『近所の知らない人にも挨拶しよう』と教えられたものだけど、今、大人が子どもに声をかけるのも疑われる。こういう世の中になって淋しいよね」

 ごくごく数人の変な人のせいで、大多数の人の善意を遮断してしまうような教育。まず、人を疑うことから教えなくちゃいけない世の中って悲しいですよね。

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

死んで逝くこと

2007年01月29日 | 仏教
 先日、総代さんのS氏がしみじみ言われていたこと。
 「(仏法を)聴聞してきて、自分が死ぬことが恐くなくなった・・・」と。

 それは、仏教にふれてこられたことで、
「自分は死んで無になる」でもない。
「死んだらどうなるのか?」と畏れるでもない。
「死」を忌み嫌うものでもない。
「死」を単なる不幸としない。
 
 生死を超越できる仏さまの心を受けとられたということです。
 
 世間では「死ぬ」なんてことを口に出すだけで、「縁起でもない」と不快に思われますが、私の身近な人々の中では、「死」は禁句ではありません。
 いつ死んでも後悔しない、明るい「死」をお互い話すことができます。

 仏さまの願いと共に生きて、死ぬ。
 
 何時どんな死に方をしようとも、死んで骨だけ残るでもなく、死んで彷徨う霊魂になるでもなく。
 
 こんなお粗末な私が、人間としての「死」と同時に、浄土(仏の世界)に生まれる。
 自分が完全な悟りを得るだけじゃなく、自由に人々を救う(悟りに導く)はたらきに成る。
 後の者を導く「仏」となる。

 いやあ、すばらしい、尊い、明るい「死」ではありませんか

 あ、もちろん、自分の山あり谷ありの人生を精一杯、強く生き抜いた後の「浄土」ですよ。
 「楽になりたい」という現実逃避で自殺しての「あの世」ではないことを申し添えます。

 
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

法専寺新年会

2007年01月28日 | 行事・案内
 昨夜は恒例の「法専寺仏教壮年会」+「若っかもんで呑もう会」+「仏教讃歌コーラス」会員 合同新年会
 この新年会だけは、お寺を離れて、毎年、蓮池町の料亭Yで開いています。

 昨夜一番盛り上がった話題。
 50代のK氏が、地元小学校校歌を前住職が作詞していることをあげ、校歌ならぬ「法専寺の歌を作ろう」と、ほろ酔い気分ながらのご提案。

 法座では「真宗宗歌」を歌って始まり、「恩徳讃」を歌って終わるのが常例だけど、各寺の歌があってもいいかも・・・

 昨夜同席の総代さんが「坊守さんのブログで募集してみて ただし、応募できるのは法専寺門徒に限る」と、これまた、ほろ酔い気分でのご提案。

 と、言うわけで、本当に「法専寺歌」の歌詞を募集します 盆踊り用の「法専寺音頭」でも大歓迎だそうです。募集期限は4月29日の門徒総会まで。
 
 来年の巡番報恩講で、法専寺一同盛り上がって「法専寺歌」を歌うのもすばらしいではありませんか

 お酒の席の話題とは言え、「法専寺が好き」「法専寺を日本一のお寺にしよう」と言ってくださる お気持ちがうれしかった。

 最後は「法専寺音頭」じゃなく、炭坑節をみんなで踊って、愉快な法専寺新年会は修了しました。
 
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

本山 成人式

2007年01月27日 | 行事・案内
 毎年 西本願寺で行われている「本山成人式」
 
 本願寺新報(毎月1,10,20日発行される本願寺関連ニュース新聞)1月20日号によると、今年は第55回目を迎え、143名の新成人が出席。
 式典は照明が消され、ロウソクの灯りだけの厳粛な雰囲気の中、代表者が献灯、献華、焼香、音楽礼拝。全員で誓いの言葉「きょうの成人式を機縁とし、み仏の御光に照らされて、互いに敬い助け合い、心豊かな社会の実現にむけて、強く正しく生き抜きます」を唱和。ご門主からの言葉、記念撮影、聞法会館で記念講演があったそうです。

 同じ組(お寺のグループ)の坊守さんも娘さんと共に、この度本山の成人式に出席され、よかったと話されていました。

 昨年成人式だった二女は、京都に居ながら欠席。一生に一度のことなのに・・・と残念に思うのは今、坊守としての母ごころ
 
 32年前、20才の私自身、成人式は京都にいたのに、本山の成人式など考えもしなかった。まさかその6年後にお寺に嫁に行くことになるなんて知るよしもなく・・・
 その日は、友人のTちゃんとスケート(だったっけ?)に行き、夜、居酒屋で「きょうは成人式でした」というテレビニュースを聞きながら、「ああ、成人式だったんだねえ」と二人で日本酒呑んでいたような・・・

 あの頃をなつかしく思い出すほど、お寺に嫁に入って、僧侶までなっちゃって今、毎日エラソウなことブログに書いている私自身が信じられな~い
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

如実知見(にょじつちけん)

2007年01月26日 | 仏教
 如実知見とは、物事をあるがままに見る ことを言います。

 もちろん、これが完璧にできるのは、仏さまだけです。 私たちは、それぞれ生まれ育った自分の価値観でしか、物事を見ることができませんから・・・
 
 でも、如実知見「物事をありのままに見る」という仏の智慧を知ることで、ほんのちょっぴり、今より楽な考え方に転じられるかもしれません。

 ひろさちや著「仏教初歩」(すずき出版)で読んで、なるほどと思わされたことがあります。その中のエピソードをご紹介。

 ある仏教学者の方の家が、隣家が火元の火災で全焼。大切な研究論文、長年かかって集めた蔵書、全て灰となってしまわれたそうです。
 隣家の不注意で自分の大切なものを全て「焼かれた」と思うと腹立たしくてたまりません。
 そこで、その仏教学者さんは、隣家を許してあげるため、研究論文や蔵書は自分で焼いてしまった・・・と思おうとされます。つまり、「焼かれた」のではなく、「焼いた」のだと。
 しかし、事実と違うのだから「焼かれたのではなく、焼いた」などとは思えません。

 そこで、その仏教学者さんは、ただ「焼けた」という事実だけ受けとることにされたそうです。
 「焼かれた」でも「焼いた」でもなく、ただ「焼けた」と。

 そう事実をありのままに受け入れることで、心が平静になられたそうです。
 
 仕返しを考えて怨みだけにイライラして生きるでもなく、「自分は寛大な人間だから許してやろう」と肩に力を入れて努力するでもなく・・・

 つらい、悲しい事実ではあるが、あるがままに受け入れられた。

 仏教の智慧はスゴイんです。私たちの逆上、動揺を心を慰めてくださる。(心が動揺しなくなる・・という意味ではありません。ちょっぴり、心が軽くなるという意味です)

 自分の計らいを捨てて、仏さまに「南無(帰依)・お任せして生きる」とはこういうことじゃないでしょうか?
  
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ありがとう

2007年01月25日 | 仏教
 仏教讃歌コーラスの話題がでたところで、先日の御正忌報恩講「子どもの集い」でも共に歌った、私の大好きな仏教讃歌「ありがとう」の歌詞をご紹介します。

 
作詞は、高田敏子さん、作曲は中田喜直さんです。
 
 みほとけの めぐみをうけて 心に満ちる ありがとう
 ありがとう 花よ
 きょうの日を明るく咲いて ありがとう
 小鳥よ
 元気な歌を聞かせてくれて ありがとう ありがとう 
 日々のくらしに 
 ありがとうの 言葉そえて

 みほとけの 微笑(えみ)に照らされ 心に満ちる ありがとう
 ありがとう 友よ
 きょうの日をともに過ごしてくれて ありがとう
 光よ
 私の道を照らしてくれて ありがとう ありがとう
 日々のふれあい 
 ありがとうの 言葉ささげて

 
 井上陽水・奥田民雄の「ありがとう」、今ならSMAPの「ありがとう」も素敵ですが、仏教讃歌の「ありがとう」もいいですよ

 一人で生きているんじゃなかった。たくさんの方の、或いは、たくさんの自然の恵みのおかげで生かされて生きている。私が今こうして生きているのは当たり前じゃなかった。有難い(有ることが難しい)ことだった。

 自分の周囲に感謝する「ありがとう」の言葉・・・ それ自体が、あたたかい言葉ですものね。
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

仏教讃歌コーラスにて

2007年01月24日 | 雑感
 昨夜は、今年始めての仏教讃歌(コーラス)の練習があり、いつものようにご門徒婦人数名とG寺さんへ。
 ソプラノ、アルトに別れて着席、練習していますが、私はアルト。ソプラノさん達のメロディに引きずられないよう音をとるのが難しい。でもそこがまた楽しい。
 
 平均年齢63才?会員40名ほど。ウチの寺が属する浄土真宗本願寺派寺院グループ(巨瀬組)からの有志で結成。和気あいあい、ほのぼのとした仏教讃歌に癒されながら歌っています

 指導してくださっているのは、G寺さんの幼稚園の先生で、G寺さんご親族でもあるI・A先生。
 このI・A先生のお人柄にひかれて皆練習に参加している面もあります。
 練習の合間にお話くださることも楽しみの一つ。

 昨夜のお話の一つ。
 ある時電車に乗ったら、女子高校生が自分の座席の横に荷物を置いたまま、乗り込んできた腰の折れ曲がったお年寄りを見ても知らんぷり。
 そこでI・A先生思わず「ちょっと、そこの荷物除けて、この方が座られるようしてさしあげたら?」と女子高生に促したら、その女子高生荷物除けながら、にらみつけたそうな。
 そこで、先生ひるまず、「まあ、そんな顔したら、折角のかわいい顔が台無しよ

 今、大人が子どもに注意することは、なかなか勇気の必要な時代です。でも、教えてあげないと気づかない面もあると思います。
 あの場で先生から注意され、自分のプライドが傷つけられた被害者意識から(?)にらみつけた女子高生も、次回同じような場面では、自ら荷物を除けてくれるんじゃないかなあ

 ただ、その時「また、やかましいオバサンに文句言われたらイヤだから・・・」と思うのだったら、がっかり 

 大人としてのマナーや思いやりに気づいて、さわやかな心で行動してくれるようになったらうれしいのですが・・・
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

慈悲

2007年01月23日 | 仏教
 世間では「愛する」ってことが、とてもすばらしい事のように称賛されています。
 でも、仏教では「愛」は煩悩(ぼんのう・心を悩み苦しませること) の一つとします。
 「えっ 人を大切に思うことはいいことなのに、何故それが、煩悩なの」と、驚かれたかもしれません。

 何故、仏教で「愛」を煩悩とするのか・・・・・それは、「愛」には「自分の執着」が混じるからです。

 相手をただ、ただ、大切に思う無償の愛があることを否定しませんが、大抵は、自分が愛しく思う相手を好み、自分が期待するように相手が言動してくれることを望んでいるのであって、突き詰めれば自己愛です。

 だから、自分の「愛する」相手が、自分の思うように言動しないと、逆に憤り憎みます。「自己愛」抜きに、本当に相手を思いやって尊重しているわけではないからです。

 最愛の家族同士でも自分の思い通りに言動してくれないと、遠慮、気遣いがないぶん、よけい腹が立つじゃありませんか

 仏教では、「愛」ではなく「慈悲」を説きます。
 全ての生きとし生けるものに、平等にそそぐ慈しみの心です。
 自分と他人、自分の好き嫌いを超越した、差別のない「慈しみの心」です。

 これは、仏さまだからできる心。そうありたいけど、私には実行不可能な心です。

 私にできるのは、そういう慈悲が尊いと気づかされて生きるだけです。「愛」の名の下に「自己愛」を崇高と讃えないことを知るのみです。その上で私の愛する人たちを思いやって、感謝して言動することです。

「自己愛」のために人を傷つけ、悲しませないように生きてゆきたいと思います。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自分がかわいい

2007年01月22日 | 仏教
 昨日、都道府県対抗男子駅伝で佐賀が3位だったとニュースで知り、思わず「オー」と喜びの声 
 
 佐賀に住んで26年にもなると、故郷の福岡より佐賀を応援する私。(もちろん、故郷は大切に思っていますよ。筑豊が舞台のドラマ見つつ「これって筑豊弁じゃない。筑豊じゃ『よか』とは使わん」と夫に訴える)

 先週、仲間由紀恵主演のドラマ「えらいところに嫁いでしまった」を見ていたら、主人公の彼女が墓掃除しながら「『親鸞聖人は自分の遺体を鴨川に捨てて魚のエサにしてくれ』と言われたのに、どうして、こんなに家族・親族一人一人大きなお墓を建てなきゃならんのか・・・」というようなセリフがありました。
 それを聞いた時もうれしかった。自分の大好きな親鸞聖人の名前とその言葉が出ただけで・・・

 人間ってつくづく、自分がかわいいんだと思います。自分に身近な物、身近な考え、自分に近いものを大切に思い、良しとする。

 応援する順番だって、国対抗のオリンピックでは日本、ブロック対抗では九州、都道府県対抗では佐賀県、県内対抗では佐賀市、町対抗では自分の住む町、家族が出場する試合なら我が家族。結局自分

 極端な話、自分に関係ない、自分と意見が合わない人達の所だから、平気でミサイル打ち込んだり、テロが実行されるわけで・・・自分の愛する者、友人がいる所を爆撃はできないと思う。

 仏教で自他を離れることを説く(我が身の執着を離れることを説く)のは、我が身がかわいいことに開き直ると人間、とんでもないことをしでかす危うさをかかえているから。

 自分はかわいい・・・同様に人もそれぞれ自分がかわいい。

 結局、自分の危うさ「凡夫の自覚」を忘れないで生きることしか私にはできません。

 

 
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする