お寺のオバサンのひとりごと

心のマッサージにお寺へ行こう!

救われる

2009年05月30日 | 仏教
 仏教で言う「救われる」とは、自分が抱えている問題が消滅することではなく

 自分の心(思いこみの考え方)が転じられること。心が軽くなることを申します。

 先日、聴聞を重ねてこられた あるご門徒女性が仰いました。

 仏教にご縁をいただく前は、(何らかの)問題を ずっと思い詰めて、ますます自分で自分の視野を狭くし、行き詰まっていたのが、
 今は、そんな時、ふっと、自分以外の視点(仏さまの視点)から、苦しんでいる自分を(客観的に)見つめることができて、「ま、いいか」 と思えるようになり、楽になりました。

 自分が不幸と思うことを、全て、社会のせい、人のせいにして
「私って、かわいそう」と、愚痴ばかりの 暗い人生より

 同じままならぬ人生でも、

 ままならぬのは、人のせいではなく、自分の「煩悩(自分中心に思い詰める思考回路)」によって、より苦しむのだ  と

 自分が世界の中心にいる思考の同道巡り から、ちょっとワープした思考を得ることで、

 ままならぬ人生も 味わい深い、豊かな人生 に 転じられるのだと思います。

 そう言う意味で 仏教は「脱世間」の教えです。

 その教えによって、心やすらぐこと・・・それが「救い」なんです。



 
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布教大会

2009年05月28日 | 行事・案内
 きょうは、仏教婦人会会長さんとM・Sさんと私3人、みやき町の長善寺さまへ。

 佐賀教区の布教大会

 今年は三根組の3ヶ寺を会所としての開催で、本日2日目でした。

 午前と午後、3名ずつ、計6名の布教使の先生方が 30分ずつ交代でご法話。

 若手の布教使さん、ご年配の布教使さん、それぞれに味わい深いお取り次ぎをいただき、それはそれは贅沢な幸せな1日を過ごさせていただきました。 ありがとうございました

 明日は、最終日
 正安寺さまを会所に午前10時から開催されます。

 
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女のくせに

2009年05月27日 | 雑感
 昨日、あらためて考えさせられることがあった。

 住職でありながら、ウイークデーは、仕事に出ている夫。
 ご門徒さんにとっては、住職が世間の仕事に忙殺されていることは、確かに迷惑なことだと思う。
 行事や仏事は、土日でいいが、ご葬儀となると、そうはいかない。

 夫はプライベートで勤務先を休むことは皆無に等しいが、ご門徒さんのご葬儀のためには年休をとって「導師」(葬儀のお坊さん)を勤めている。
 それでも、勤務先の職務で、どうしても休めない時がある。

で、そんな時、一応、僧侶の端くれである私が、代わりに勤めさせていただくわけですが・・・

 やはり「お坊さんは男」と思いこんでおられる方々にとっては、
「えっ 女なの
「お寺の奥さんのくせに、葬儀まで勤めて、エラソウに・・・」

って、思われるようです。(← 今さら、そう思われることに対して、驚くことではないのですが・・・) 

 ま、いいか(← いつもの私オバサンの思考パターン)

 たま~に、お世辞で
「男性僧侶の野太い声の読経を聞き慣れていますが、女性の読経もいいですね~」なんて、言っていただくと、単純な私は、すぐ喜んじゃうのであります。

 仏の教えには、何ら差別はない。地位も名誉もお金も・・・男・女も、僧侶・門徒の差別も・・・何~もない。

 だから、私は、私にできることを精一杯勤めさせていただくのみです。

 言いたい人には言わせておこう
 
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慈悲 その5

2009年05月25日 | 仏教
 病気で苦しむ最愛の家族、恋人、幼くして死に逝く我が子、代わってあげたい と思っても、その身に代わることはできません。
 
 また、身近な人に対する、ちょっとした親切についても
 こちらは、親切にしたつもりが、相手にとっては、迷惑かもしれない。
 あるいは、親切心のつもりが、誤解され、逆恨みされるという不条理なことすら起きることもあります。

 じゃあ、困っている人に対して、何もしないのか  

 いやいや、そうではなくて
 親鸞聖人の仰る「浄土の慈悲」とは

 悲しみ、苦しんでおられる方々に対して、どんなにかわいそうだ、気の毒だ、助けてあげたい、と思っても、全ての人をその苦しみから救ってあげることなど、凡夫の私には、到底できない という自覚です。

 その自覚をもった上で、今、私にできることは、
 
 悲しんでおられる方、苦しんでおられる方の思いに「寄り添う」こと。
 何も成し得ない私だけれど、せめて、何かお役に立って、できることがあれば、させていただこう

 決して、お礼を期待したり、
「う~ん、私って、親切な やさしい いい人」という自己満足や、
 思い上がりの 「してあげる」でなく、 
 
「させていただく」

 
 浄土の慈悲といふは、いそぎ仏に成りて、大慈大悲心をもって、おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり。

 本物の「慈悲」の完遂は、自らが仏と成ってからこと。
「いそぎ仏と成りて」は、仏と成るために、「早く死ね」という意味では決してありませんよ
 まずは、阿弥陀さま心(本願)を私の心にキャッチして、仏に到る道を歩ませていただくこと。
 それが、慈悲を完遂できる早道なのだと 親鸞聖人が仰っているのではないでしょうか
 
 
 

 
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天使と悪魔

2009年05月24日 | 雑感
 降誕会デートで、映画「天使と悪魔」を観ました

 (近くにシネコンができてから、夫婦で映画に行く機会が増えました。片方が50才以上の夫婦(カップル)は、いつでも料金が安いという魅力もあり)

 「ダビンチ・コード」の時は、飲み会出席の夫を佐賀の歓楽街に送った後、一人フラリと見に行ったのですが・・・
 今回は「カトリックの勉強」「バチカンの勉強」名目で夫を誘ってのデート。

 内容はもちろん面白い。
 バチカンの風景が美しい。

 仏教に身を置くものとしては、

 仏教と科学は、何ら矛盾しないなあ~ と思う。

 仏教は、無我(執着を離れること)を目指す教えなので

 あらためて、「宗教者」にしろ「無宗教者」にしろ、自分の主義主張を「正義」と振りかざすことの恐ろしさをヒシヒシと感じたのであります。

 やっぱり、執着を否定する仏教はいいなあ~
 
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本願寺webTVで

2009年05月22日 | 行事・案内
 20,21日の親鸞聖人降誕会に引き続き、
 
 きょうからは「本願寺御影堂(ごえいどう)平成大修復完成慶讃法要」が勤修されていますが、

 その法要の模様がネット配信されています。私も本日午前中、ネットで本山の法要にお参り?させていただきました

 26日まで、毎朝午前10時からです。どうぞ、参拝気分を味わってください。


 それにしても、新型インフルエンザ騒動で、大変なことに・・・
 もはや、佐賀の薬局にも マスクがありません。
 この時期、外出先で、万一、喘息発作でも起こそうものなら、周囲から2m、人が遠のき、ものすごい目で見られそうで・・・その方が怖いです。
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慈悲 その4

2009年05月22日 | 仏教
 仏さまの慈悲とは
 娑婆世界:ままならない、堪え忍ぶ世界 に ジタバタ生きている私たちに

 浄土の世界:仏さまの世界 悩み苦しみを超越した 覚りの世界 があることに気づかせて
 生きるのを楽にさせてやりたい 本当の幸せに 気づかせたい

 そして、娑婆世界との縁が尽きた時は(臨終で) 直ちに浄土へ導いて 仏(真理に目覚めた者)と完成させよう 

という、大慈大悲(大きな大きな慈悲の)心です。

 つづく・・・
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慈悲 その3

2009年05月20日 | 仏教
 慈悲に聖道・浄土のかはりめあり。

 まず、聖道門(しょうどうもん) と 浄土門(じょうどもん)

 聖道門とは、厳しい修行で「煩悩」(自分にとらわれることから生じる穏やかでない心)を滅し、仏(覚り)を目指すグループ

 浄土門とは、阿弥陀如来の救いによって、仏に成らせていただくグループ

 慈悲について、それぞれのグループで違いがある と 親鸞聖人は仰っています。

 聖道門の慈悲は、「自分の力で何とか皆を幸せにしてあげたい」 という わかりやすく、すばらしいことに思えますが・・・
 私が凡夫である限り、慈悲の完遂は不可能です。

 浄土門の慈悲は、まず、自分が仏と成らせていただいてから、皆が幸せになるように、はたらく。慈悲を完遂する。

 何と回りくどい じゃあ、生きている間は、困った人がいても知らん顔なのか

と思われるかも知れませんが、

 そうではありません 困った人がおられたら、お役に立とうとするのは当然の行為です。

 仏の慈悲 とは、私たちが「慈悲」と混同する「同情」や「愛情」や「親切」とは次元が異なります。

つづく・・・

 


 
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降誕会(ごうたんえ)

2009年05月19日 | 行事・案内
 5月21日は、親鸞聖人のお誕生日です

 本山を中心に、宗祖のお誕生日をお祝いする法要「降誕会」が勤修されますが・・・

 本山の降誕会行事にも、新型インフルエンザの影響が出ているようですね。

 さて、真宗門徒の皆さま、

 クリスマスでなく、降誕会を勤めて、お祝い、歓び、感謝していただきたいと存じます。
 イエス・キリストの誕生日を知らない日本人はいないでしょうが、親鸞聖人のお誕生日を知っている人は少ないでしょうから・・・

 写真は、麦秋
 のどかな佐賀平野です。

 

 
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慈悲 その2

2009年05月19日 | 仏教
 昨日ご紹介した「歎異抄」第4条の現代語訳(浄土真宗聖典 歎異抄 現代語版)です。

 慈悲について、聖道門と浄土門とでは違いがあります。
 聖道門の慈悲とは、すべてのものをあわれみ、いとおしみ、はぐくむことですが、しかし思いのままに救いとげることは、きわめて難しいことです。
 一方、浄土門の慈悲とは、念仏して速やかに仏となり、その大いなる慈悲の心で、思いのままにすべてのものを救うことをいうのです。
 この世に生きている間は、どれほどかわいそうだ、気の毒だと思っても、思いのままに救うことはできないのだから、このような慈悲は完全なものではありません。ですから、ただ念仏することだけが本当に徹底した大いなる慈悲の心なのです。
 このように聖人は仰せになりました。


  
 当時、「仏教学」を卒業単位取得のため(まさか将来お寺に嫁ぐなんて夢にも思わなかったので)仕方なく受講していた20才の私は、

「念仏して速やかに仏となり・・・」と、いうことを
 
 現世において、この身のままで
 念仏の不思議なパワーを得ることで、
 スーパーマンのように
 困っている人を助けることができるのか

 それとも、生きている間は、全く何~も役に立てないんだから、
 速やかに死んで、仏に成れ! ってことか

と、ヒドイ勘違いをしたのであります・・・

つづく・・・
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