お寺のオバサンのひとりごと

心のマッサージにお寺へ行こう!

ホトトギス

2008年10月31日 | 雑感
 庭に、ホトトギスが咲いています。日陰でひっそりと・・・

 このところ、急な冷え込み、季節の変わり目のせいか、ご門徒さんが立て続けに亡くなられ、バタバタしています。
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ひや 

2008年10月30日 | 佐賀ネタ
 きょうから、佐賀インターナショナル バルーンフェスタ が始まりました。
 
 昨夜は、前夜祭行事で、佐賀駅から県庁につながる南北大通りの電飾の点灯式がありました。テレビ中継より、やや遅れて、花火の音が「バンバン」 と 郊外のウチんちにも聞こえたのですが・・・

 佐賀の人(いや、もしかしたら、夫だけ?)は、轟音を響かせる花火を「ひや」と言います。
 夫曰く、「夜空を彩るのが、花火であって、音だけするのは『ひや』だ

 夫の説だと、直方で魁皇が勝つと上がる花火も花火じゃなくて、「ひや」ってことになる。

 どんな字を書くのか尋ねたら、夫もよく知らない。
 たぶん「火矢」なんじゃないかと言う。

 「火矢」って、戦国時代の焼夷弾?兵器ですよね~

 鍋島藩下は、古い言葉が残っています。
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11月ご案内

2008年10月28日 | 行事・案内
 先週末から急に冷え込み、あわてて冬支度。 きょうは、爽やかな晴天の佐賀です。

 さて、気がつけば、間もなく11月・・・ということで、法専寺の行事案内です。

 11月 1日 住職は、組内J寺若院さんの結婚式 と
       午後7時~ 「法専寺 若っかもんで飲もう会」

 11月 2日 午前9時~ 仏教壮年会例会 と 
       例会終了後 法専寺グランドゴルフ大会 
 11月 8日 午後6時半~ 法専寺にて 組の門徒連続研修会

 11月 9日 午後1時半~法専寺総追悼法要 (講師:J寺若院さんの父上)
        午後6時~そのJ寺さんにて、坊守会

 11月11日 九州地区仏教婦人会大会で、法専寺からは、仏婦会長Mさんと北九州メディアドームへ。

 と、前半だけでも、行事が立て込んでおります。

 さ、今からグランドゴルフ大会の景品買いに行ってこようっと。

 
       
 


 
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仏教讃歌コンサート

2008年10月27日 | 行事・案内
 先週土曜日は、伊万里にて、第18回佐賀仏教讃歌コンサート でした。

 今回は、伊万里の宗門校・敬徳高校の高校生達が、音楽法要をつとめ、コーラスを披露してくださいました。また、有田の幼稚園の園児による仏教讃歌「おしゃかさま」「あみださま」のお歌の披露もありました。
 
 高校生らしい元気な明るい歌声と かわいい園児の歌声を楽しみました。
 
 各団の発表にも聞き惚れました。
 我ら「こぶしの会」もステージに立って頑張りましたよ。

 団体バスで佐賀に戻った後、法専寺の仏教讃歌会員8名で、打ち上げに 

 ああ、楽しかった。優雅な一日でありました。
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呼吸

2008年10月26日 | 本紹介
 五木寛之氏と玄侑宗久氏の「息の発見」平凡社 
 その中にも出てくるのですが、職業別平均寿命ランキング1位は、僧侶なんだそうです。
 
 ストレスが少ないからでしょうか? 
 
 いえ、僧侶だって、生身の人間。人生いろいろ、悩みもいろいろです。
 
 ただ、仏の教えを知らない人に比べたら、同じ事象が起きても、受け取り方というか、ストレスを感じる度合いが軽いのじゃないか・・・と思います。
 

 上記・著書の玄侑宗久氏は、僧侶が長生きなのは、お腹から声を出して、おつとめをする(お経をあげる)するから、それが、健康にいいのではないか と書かれています。
 
 声楽家が体力を消耗されるのと同様に、僧侶もお経をとなえるのに、結構、体力を使いますから。

 玄侑宗久氏は、そう言う意味では、「お経」は、リズムが大切であって、意味がわからなくてもいいのでは・・・ と仰っています。
 

 

 
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佐賀の秋

2008年10月23日 | 雑感
 最高気温が25℃をこえ、コスモス(秋桜)とともに、桜が咲いたところがあるそうで・・・ウチでは、ツツジの開花が・・・
 佐賀平野は、稲刈りが半分済み、もち米の刈り取りは、まだ。今からのようです。
 きょう、ご門徒さんから新米をいただきました。

 

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歎異抄第3条 

2008年10月22日 | 仏教
 「善人でさえ浄土に往生することができるのです。まして悪人はいうまでもありません」で始まる歎異抄第3条現代語版(本願寺出版)の続きをご紹介します。

 世間の人は普通「悪人でさえ往生するのだから、まして善人はいうまでもない」といいます。これは一応もっともなようですが、本願他力の救いのおこころに反しています。なぜなら、自力で修めた善によって往生しようとする人は、ひとすじに本願のはたらきを信じる心が欠けているから、阿弥陀仏の本願にかなっていないのです。しかしそのような人でも、自力にとらわれた心をあらためて、本願のはたらきにおまかせするなら、真実の浄土に往生することができるのです。
 あらゆる煩悩を身にそなえているわたしどもは、どのような修行によっても迷いの世界をのがれることはできません。阿弥陀仏はそれをあわれに思われて本願をおこされたのであり、そのおこころはわたしどものような悪人を救いとって仏にするためなのです。ですから、この本願のはたらきにおまかせする悪人こそ、まさに浄土に往生させていただく因を持つものなのです。
 それで、善人でさえも往生するのだから、まして悪人はいうまでもないと、聖人は仰せになりました。

 
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善悪

2008年10月21日 | 仏教
 「自分が悪人」だなんて、フツー思いませんよね。
 世間で言う「悪人」は、犯罪人 や 人の迷惑お構いなし・極めて不道徳な人 ってイメージですから・・・

 仏教で言う「悪人」とは、世間で言う、そういう悪人とは違います。

 仏教で言う「悪人」とは、仏さまの悟り・真理(どんな時代でも、どんな場所でも変わらない真理)の側から見たときの「仏の智慧をもたない、愚かな人間(凡夫)の姿」を言います。

 ひろさちや氏は、「絶対善」と「相対善」という言葉を使われていますが、

 仏さまが「絶対善」だとしたら、私たちは「相対善」。 環境や当人の価値観によって、変わる「善」です。

 自分のことを「教養があり、道徳も守り、常識ある人間」と思っていても、仏の智慧の光(絶対善)によって、私の心が レントゲン写真のように映し出されてみたら、
 
 あるいは、普段見えない空気中のチリが、雨戸のスキマから射し込む強い光 に照らし出され、初めて気がつくように

 「ありゃ 私の心って、こんなに汚れていたんだ 
と、気づかされる自覚 が「悪人」なんじゃないでしょうか。

 「善」は心がけたいと思う。でも、その「善」が全ての他者にとって「善」なのかわかりません。

 また、報道を見て、私も、よく犯罪人を憎みますが、

 でも・・・もし、私が、彼と同じ遺伝子をもち、彼と同じ環境で育っていたら・・・私だって、何をしでかしたかわかりません。

 私は、たまたま遺伝子も環境も恵まれたから、今、「お陰様で・・・」なんて、いい子ぶって生きているだけで、これは、決して私の手柄ではない

 道徳上の善悪も「縁」次第なのではないか。

 そう「善悪」を考えている私であります。

 
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善人と悪人

2008年10月20日 | 仏教
 昨日の「若婦人の集い(真宗基礎勉強会)」では、歎異抄第3章「悪人正機(阿弥陀仏の救いの目当ては悪人である)」をテーマに

 親鸞聖人の仰る「善人」「悪人」について、一緒に味わってみました。

 第3章は「善人でさえ、浄土に往生できるのです。まして悪人は言うまでもありません」(現代語訳)という文章で始まります。

 世間一般の「常識」からいうと、「はあ 善人と悪人が逆だろう 『悪人でさえ浄土に往生できるのだから、善人は言うまでもない」だろう」と、思うのですが・・・
 
 私の愛読書「漫画 歎異抄」本願寺出版には、こう書かれています。
 p82「道徳的に言えば その通りですが でもこれは人の行為を判断して モラルを説いているんじゃなくて 阿弥陀さまの お慈悲が どこに向いているかという話なんです」
 
 人間の価値判断による善悪って、時代や場所、都合によって変わったりしますよね。 テロ行為も一方では正義(善)で、他方では「悪」。
 例えば、お年寄りに席を譲るのは善だけど・・・体の具合が悪い若者が、(元気な)お年寄りに席を譲らず、座り続けているのを見たとき、事情を知らない周囲は、若者を「悪」とみる。
 p85「ある時は愛欲のおぼれ、ある時は憎悪に満ちながら たえずゆれ動き 生きている限り 煩悩の支配から抜け出すことのない ほかでもない この私が 悪人なのです」

 私は仏教で言う「善悪」とは、自覚の問題だと味わっております。
 
 自分の価値判断だけで、私は立派に生きていると思っているのが「善人」
 
 仏さまのこころ(願い)をいただいて、自分をよ~く見つめてみたら、自分は善人どころか、その時の「縁」(状況)によっては、何をしでかすか わからない 危うい私である という「悪人」の自覚

 私たちが道徳的に考える「善悪」を超えた阿弥陀様の大きな慈悲のこころ

 私以外の「悪人」に向けられているんじゃなく、「この私」こそ、「悪人」で阿弥陀さまの救いの目当てだったんだ と・・・

 
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さて?

2008年10月18日 | 行事・案内
 昨夜、生け花の師匠宅で、
初めて見て、初めて食べたもの・・・
 
 なつめ です

 2cm×1cm 位の 大きさ。
 中に種があり、サクッと、りんごのような食感と味でした。

 さて、明日は 午後1時半から「法専寺若婦人の集い」(一応、「若婦人」としていますが、年齢制限なし、真宗基礎勉強会)です。

 歎異抄の「善人なほもって往生をとぐ、いはんや悪人をや」をご一緒に味わいたいと存じます。

 さて、何人来て下さるかなあ~ 

 

 
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