お寺のオバサンのひとりごと

心のマッサージにお寺へ行こう!

その7 悪人正機(あくにんしょうき)

2006年11月30日 | 仏教
 きょうは快晴 明日から師走。ということで、きょうは廊下のレースのカーテンを洗濯。まあ洗ってくれたのは洗濯機ですが・・

 きょうの仏教語は「悪人正機」

 阿弥陀仏の本願は、悪人を目当てに救うために建てられた という意味です。
「正機」とは、正に目当ての意味。「機」は、私たちの心のことです。

「えっ 悪い人が救われるの  いいことする善人が救われるんじゃないの」 と驚かれたかもしれません。

 ここで言う「悪人」とは刑事上、道徳上の「犯罪人」のことではないのです。
 
 仏さまの智慧の光で映し出された時の私の心。一筋の清浄な光が暗い雨戸の隙間からサーっと差し込んだ時に初めて見える(気づく)ホコリ。そのような私の心の汚れを「悪」と言っているのです。

 つまり、危うい自分、脆い心 を自覚している人がこの場合言っている「悪人」です。
 親鸞聖人は人間とは「さるべき業縁のもよおさば、いかなる振る舞いもすべし」(いろいろな縁によっては思いがけないことをしでかすかもしれない)と言われています。

 そういう「悪人」の自覚をもった者に阿弥陀仏が、よりそってくださる。
 私こそ悪人なんです 阿弥陀仏の救いの目当てが「悪人」というのは、そういう意味なのです。

 それにしても、理解をこえたひどい犯罪があまりに多い。 きっと、阿弥陀様は「お願いだから、私の願いに気づいてくれ」と、泣いて泣いて苦しんでおられると思います。
 
 今、たまたま刑罰上悪いことをしていなくても、阿弥陀様に心配かけている私なんですから、せめて自分で気づく程度の微々たる振る舞いは気をつけたいと思うこの頃です。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

その6 浄土・往生

2006年11月29日 | 仏教
 昨夜はウチの寺から仏教讃歌コーラスに参加してくださっているメンバー8名で反省会(お疲れ様会)をしました。
 年に1回、気心知れた法専寺中心女性陣のお楽しみ会です。私が一番お世話になり甘えている方々。
 
今年は多布施(佐賀市の町名です。何とありがたい名前でしょう)にある豆腐料理の店Mへ。
 
 メンバー2人を私の愛車(軽)で迎えに行き、店に向かう時、ちょうど夕方のラッシュ時(田舎の佐賀でも渋滞は起こる)にかかりました。
 こんな時、世間一般では「立ち往生」と表現しますが、

 きょうの仏教語は「浄土」「往生」です

 一般的に往生は「困った」「どうしようもなくなる」意味で使われることが多いのですが、仏教語としての「往生」は、「浄土に往って生まれること」
 浄土は単なるあの世ではなく、仏の世界、つまり清浄な悟りの世界です。
 
 キリスト教の「天国」という概念とは異なります。
 仏教では「天」(キリスト教の天国の意味ではありません)という場所は、まだ迷いの世界なんです。有頂天の「天」といったところでしょうか。

 「浄土」は「天」を超えた「もう決して心コロコロ迷わない真如の境地・完全な智慧と慈悲の世界」です。

 だから、仏教のお葬式、弔辞で「天国でやすらかに」「天国からお守りください」と言われるのを聞くと真宗門下としては、ちょっと違和感をもってしまうのであります。
 「あのう・・亡くなった方は天国じゃなくて、お浄土に往かれたんですけど・・・」と、ボソッとつぶやきたくなる。

 浄土真宗の場合、故人が浄土に往生できるのは、僧侶の力でもお経の力でも参詣者の祈りの力でもなく、阿弥陀如来の救いの力=本願力 であります。

 ところで渋滞に巻きこまれたらイライラせずに、明るくあきらめましょう。
 渋滞の一因は今、渋滞の真っ只中にいる自分自身なんですから・・・


コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

その5 他力本願

2006年11月28日 | 仏教
 昨日、早坂隆 著「世界の日本人ジョーク集」中央公論新社 を読んで一人爆笑していました。 もう、読まれた方も多いかもしれませんが、新聞広告にも載っていた一節をご紹介。

 ある豪華客船が航海の最中に沈み出し、船長は乗客に速やかに海に飛び込むよう指示し、うながすためにこう言った。

 アメリカ人には、「飛び込めばあなたは英雄ですよ」
 イギリス人には、「飛び込めばあなたは紳士です」
 ドイツ人には、「飛び込むのがこの船の規則となっています」
 イタリア人には、「飛び込むと女性にもてますよ」
 フランス人には、「飛び込まないでください」
 日本人には、「みんな飛び込んでますよ」

 日本人は「和をもって尊しとなす」国。 和やかな「和」は、いいのですが、「談合」「根回し」が好きで、「みんなと一緒」「みんなと同じ」でないと、不安を感じる国民性。気をつけないと、これがいじめの土壌になっていることもあり
 
 私も「みんなと同じ」が好き。「何がいい?」と聞かれても「みんなと同じでいい」と答えてしまう。でも、私の場合、和を尊ぶというより、考えるのが面倒くさいだけかも・・・


 前置きが長くなりましたが、きょうの仏教語は「他力本願」

 世間一般では、「自主努力の放棄」「人頼み」「棚からぼた餅」のような悪い意味に使われますが、

 仏教語としては、「他力」とは阿弥陀仏の力(はたらき)「本願」とは、阿弥陀仏が「凡夫を救いたい」「私たちを悟りに導きたい」という「仏の願い」を言います。私のほうからの「お願い」ではなく、仏のほうからの「願い=他力本願」
 浄土真宗では、とっても大切な意味を持つ言葉なんです。

 以前ある企業がキャッチコピーは忘れましたが「他力本願から抜け出そう」みたいな広告を出したことで本山がクレームをつけたことがありました。

 誤解とは言え、日本語で「人任せ」の意味に使われているのは、事実なんですし・・誤用はやむえないことなのでしょうが、浄土真宗に生きている者にとっては誤用されると悲しく、不快・・

 皆さんに仏教語としての本当の意味を広く知っていただきたいと願っております。
 
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

その4 凡夫(ぼんぶ)

2006年11月27日 | 仏教
 きょうの仏教語は、「凡夫」
 
 凡夫と言っても平凡な夫のことではありません。
 煩悩に満ちあふれたこの私のことを言います。仏さまからご覧になった時の悟りに至らない一般人のこと。

 親鸞聖人は著書「一念多念証文」の中にある有名な一節で「凡夫というは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲も多く、いかり、腹立ち、そねみ、ねたむ心多くひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、消えず、たえず・・」と言われています。

 「無明」は、明るくない・・知識はあっても仏の智慧がないことです。
 私たち凡夫は、仏の智慧がないために煩悩がさかんで、欲が多い、ちょっとしたことで腹を立てる、そねみ、ねたむ心も湧き起こる。そういう煩悩に、心が死ぬまで、絶えずかき乱される存在。それが、凡夫です。

 現代社会では、自分は教養があって、常識があって、立派に生きている・・と思っている人・・・つまり、凡夫の自覚のない人が多いかもしれません。

 私たちはお互い「凡夫」なんだ。お互いさまなんだ。と、自覚することが、仏教の第1歩だと思います。

 

  
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

その3 煩悩(ぼんのう)

2006年11月26日 | 仏教
 きょうは朝から雨 日の出が遅くなってきた上、天気が悪いと、なかなか夜が明けない。 きょうは何も行事がない日曜日ということで7時(佐賀の本日の日の出時刻)まで寝ていました。

 
 さて、きょうの仏教語は「煩悩」です。
 
 中村元先生監修の「新・仏教辞典 誠信書房刊」によると、

 煩悩とは、「身体や心を悩ませ、かき乱し、煩わせ、惑わし汚す精神作用の総称。仏教では人間が苦楽の世界に沈み常に束縛されるのは、意識無意識のうちに営む我欲・我執の目的を達するための心作用によるとして、悟りという仏教の最高目的を標準としてその実現を妨げる精神作用のすべてを指す」

と書いてあります。

 我欲・我執とは、単なるワガママという意味ではなく、それぞれが自分の生まれ育った中で持つ価値観に執着すること。自分の「考え」「思い」に執着、そして、自分を正当化しがちであることです。
 
 我執を離れることが悟り、仏となること。心穏やかに悩みをなくす理想像。

 でもね。煩悩を離れることができるでしょうか?

「煩悩があるから人間じゃないか」・・・それはそうです。かと言って「煩悩があって当然じゃないか。煩悩のあることの何が悪い」と開き直られたら、それは自己執着の自分教・・・

 人間である間、煩悩を離れられないのは、同じですが、

 仏教は、仏という理想像に自分が相対して、煩悩まみれの自分を恥ずかしく思うこと。反省しながら生きること。煩悩を持つ自分をしっかり認識して生きることではないでしょうか。

 
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

その2.念仏

2006年11月25日 | 仏教
 本当は今頃、紅葉の京都で「住職本山参拝研修会」を受けているはずの住職ですが、出席できず・・・
「住職本山参拝研修会」というのは、本山で住職補任式(住職と任免される式)を受けて、つまり住職となってから、6年目と11年目に本山で受ける研修会のことです。まあ、住職免許更新といったところでしょうか。
 
 住職になって11年目のウチの住職さんは、金曜日に勤務先の休みを取って金・土の一泊で本山に行く予定だったのが、金曜日どうしてもはずせない会議が入り、欠席。
 早速、本山から次回に出席するように連絡がきましたが、年5回予定されている日程が全て平日なので、勤め人の住職にとって難しそうです。

 さて、きょうの仏教語は「念仏」

 自己中心の思いによって悩み多い私を悟りに導き救おうと、はたらいておられる阿弥陀仏を心に想いうかべること。「南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)」と口に称えることを称名(しょうみょう)念仏と言います。

 南無阿弥陀仏の「南無」は「帰依する」の意味で、私の人生の拠り所と仰ぐことです。 
「阿弥陀」は「阿」が反対語のunの意味、「弥陀」は「量る」の意味。つまり「阿弥陀」は「量ることができない」・・はかりしれない無限の空間と時間。無限の智慧と慈悲を指します。

「仏」は、「如来」と同じ意味で「真如より来たもの」・・真如とはこの世の真実(時代、場所を超えた尊い道理、悟り)ですから、つまり、悟りの世界より私を救うためにこの世界に来て下さったもの。それが仏さま。何をしでかすかわからない私、不完全な私に寄り添って脇道にそれないよう伴走してくださる存在。
 
 私たちが「南無阿弥陀仏」と称えるのは「真如の仏さまを私の人生の拠り所と仰ぎます」という意味です。

 阿弥陀仏から私への呼びかけが「南無阿弥陀仏」であり、その仏のこころを頂いた私のお礼の言葉が「南無阿弥陀仏」の念仏です。阿弥陀仏と心を合わせる形が合掌で、阿弥陀仏と心を合わせる言葉が念仏。

 だから、決して、念仏は悪霊払いや自分の願いごとをする時の、怪しげな呪文ではありません。  
コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

よくわからない仏教語 その1

2006年11月24日 | 仏教
 仏教の専門用語って難しい  しかも、お寺に生まれ育った方はその言葉を常識語として使っておられるから、若い頃の私みたいに仏教に疎い者にとって、チンプンカンプン。

 お寺の法座でお客僧さんとしてお招きし、ご法話いただくのは「布教使」さんです。僧侶の中でも学問深め、難しい試験に合格されて資格を得られた布教のプロ。
 
 布教使さんは、聖教(真宗で言えば親鸞聖人の書かれたもの)にそってお話されますから、時々専門用語やお経、聖教の一節をペラペラ言われて、初心者には外国語に聞こえます。それでよくわかるご門徒は、よほどの仏教通。

 わかる方は、大好きな仏教のお話だから、自ら進んで法話を聞きに行きたくなる。一方、初心者は、難しくてさっぱりわからない、楽しくないから、お寺の法話を聞きたくない。

 ってことで、仏教初心者の方に仏教語を少しご紹介いたします。法話を聞くための基礎知識です。きょうは、まず、「合掌」について。

 「合掌」(がっしょう) 両手を合わせること。仏教では右手が仏の世界、左手が私の世界に例えて、その両手を合わせるところに人間の理想の姿、真実を見る

 亡くなった人に対して、「かわいそうに」とか「迷ってたたらないよう、成仏して下さい」と願うために合掌する・・と誤解している人が多いと思いますが、本当は意味が違います。
 「私が仏さまと心を合わせる」のが合掌、礼拝(らいはい)なんです。 
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

家庭内の思いやり

2006年11月23日 | 仏教
 きょうの総追悼法要は雨。
 冷たい雨の中、お参りいただいたご門徒の皆様ようこそ、ありがとうございました。

 きょうのご講師は基山の○蓮寺ご住職。
 きょうのお話の中で印象深かったことは(無明についての話の中で)、
 
 昔に比べたら、物質面では格段恵まれた生活をしているのに、喜ぶどころか表情の暗い人が多いこと。
 
 家庭内で会話が少なく、親子間でも挨拶がない家庭があること。 そんな時は年長者の方から「おはよう」「いってらっしゃい」「お帰り」「お疲れ様」と声をかけ続けたら、やがて年少者も挨拶するようになるだろう ということ。

 もし、年寄りを邪魔扱いしている親がいるならば、子どもがそれを見習って、その親が年老いた時、同じように邪魔な厄介者扱いするだろう ということ。

 明日、いや今夜の命もわからないお互いだから、失ってみて初めてその存在の尊さに気づくより、今あるお互いの命をよろこび、家族いたわり合って生きていきたい ということ。年の順に死ぬとは限らないですものね。
 

 あと、なるほどとおもしろかったのは、5本の指の中3本を折り曲げた時、残りの親指と小指の向きのこと。 親指は小指のほうをむいているが、小指は親指とは違う方向を向いていて、親の心子知らずと同じだと・・・ 一同笑いました。 
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

クリスマスもいいけれど・・・

2006年11月22日 | 仏教
 そろそろ、町はクリスマスに向けての飾り付けが始まりました。今や「クリスマスをお祝いしないと、日本人じゃない」かのようなマスコミ報道。

 クリスマスが本当は、どういう日なのか知らない子ども達が多いのではないかしら
 ただのお祭りイベントと誤解している子ども達。
 クリスマスとは、ツリーの飾り付けをして、サンタさんからプレゼントもらって、家族でごちそう、ケーキを食べて、意味はわからないけど「メリークリスマス!」と言う日と思っている・・・  

 若者にとっては、ロマンチックなデートをする日という誤解。キリスト教の教えから遠く離れて、欲望丸出しの日。
 
 イエス・キリストの生誕を祝う日ってこと、どのくらいの日本人が意識しているのだろう・・・

 我が家は寺なので、当然クリスマスはなし 子どもが小さい頃はおいしそうなケーキが並ぶ季節なので、クリスマスは「ケーキを食べる日」でした。
 子どもから「どうして、ウチはプレゼントがないの」と、つっこまれ、「ウチは親鸞さんのお誕生日(5月21日)をお祝いするから、その時に降誕会プレゼントをあげるよ」と誤魔化し、結局、特別何も買ってやらなかったような・・・


 それにしても、お釈迦様の誕生日って悲しいくらいマイナーです。4月8日の花祭り(お釈迦様の誕生日)を知っている子どもは、どのくらいいるのでしょう。
 
 花祭りには、クリスマスのような夢ある登場人物(サンタクロース)や、美しいイルミネーションもないし、お釈迦様の像を花で飾り、甘茶をかけてお祝いするくらいでは、映像的にも地味なのでしょうか。

 商店は「クリスマスセール」で盛り上がっても、「花祭りセール」とか聞いたことない・・・企業の方、何か盛り上がるイベント企画ないでしょうか

 佐賀では最近「花祭り」には、宗派をこえた僧侶と色とりどりの衣装を身につけた稚児さん(仏教寺院経営の幼稚園児)が町をパレードしています。
 仏教頑張れ 
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

行事前

2006年11月21日 | 雑感
 23日の総追悼法要が近づいて、数日前より少しずつ準備。 本堂の花いけ直し、お供え物買ったり、ご講師のおみやげ準備したり・・
 
 きょうは晴天  本堂掃除後、外掃除していたら、総代さんのM氏ご夫妻が境内掃除に来て下さった  「天気予報では明日雨だからきょうの内にと思って・・」と。 うう・・ありがたい(感涙)

 M氏は5日前も草刈り機持参で、周辺道路まで草刈ってくださった。しかも、その時は私パソコンで遊んでいて気が付かなかった・・

 午前中いっぱい三人で草取り、落ち葉掃除。サラリーマン時代のM氏の体験談(全国あちこち転勤や来訪しておられるから、おもしろい)奥様からはお得意の手芸の話などを聞きながら作業。
 暖かいお日様の下、ほのぼのした時間。

 お陰様で見事にきれいになりました
 
 今夜は生け花に行って、ご講師部屋と門徒会館の床の間のお花をいけ、明日も準備頑張ります。
 23日はたくさんお参りにきてくださったら、いいなあ 
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする