お寺のオバサンのひとりごと

心のマッサージにお寺へ行こう!

ミニトマト

2007年07月30日 | 佐賀ネタ
 庭の畳2畳分くらいの小さな家庭菜園です。

 総代のM・S氏が、肥料、苗を持参~ 土を耕し~ 植え~ 手入れ と作業してくださいます。
 
 全ておまかせの私は、水やり、収穫して、ありがたく頂くだけです。

 今年は、大雨、台風で「トマトが、だめだった」と皆さん仰る中、ウチのトマトは優秀です。

 梅雨明け以来、雨が降らない佐賀です。きょうも太陽が、ギンギラギンに照りつけています。
 夕方の水まきが、日課です。夕立もないので・・・

 日照りの時の水やりでは、トマトの実に水がかかると、実がわれやすい・・・と、聞いたので、なるべく根元に水をかけるように気をつけています。

 台風5号が、接近しそうです。ほどよい雨だけ・・・なんて、都合よくいかないでしょうね。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

暑い、熱い、篤い

2007年07月30日 | 行事・案内
 高校総体の熱戦が始まりました。
 法専寺では、昨日は早朝7:30から、仏具の「おみがき」と盆前の境内清掃でした。
 猛暑の中を、50名近くのご門徒さんにおいでいただき、奉仕作業をしていただきました。
 仏教壮年会会員を中心に、草刈り、豪雨で流れた境内の砂入れ、本堂では、足場を組んで、高い所の煤はらい、拭き掃除、
 女性は、仏具みがき、門徒会館、納骨堂の清掃
などに、汗を流していただきました。

 ご奉仕くださいました、ご門徒の皆様、
 じっとしているだけで消耗する酷暑の中での大仕事、本当にお疲れさまでございました。お陰様で気持ちよく、お盆を迎えることができます。
 厚く御礼申し上げます。

 境内清掃を午前中に終えて、午後は雑用、夕方になって、やっと投票所へ。

 夜は、結構遅くまで本を読みながら、開票速報を見ていました。

 実は、比例区に浄土真宗本願寺派の僧侶F氏が、今回、圧勝したM党から新人候補として、出られていて、初めて本山あげての「宗門特別推薦」応援態勢でした。 当選されたようで、よかったです。
 
 今回、知ったことですが、学校現場では、食前に、手を合わせて「いただきます」を言うことについて、

「『合掌』は、仏教徒の作法だから、宗教色を排除して、『合掌』をせずに、口で『いただきます』だけを言おう」
なんて、指導になってきているそうです。(文部科学省が出している小学生用「こころのノート」による)

 公的場からのヘンな宗教排除・・・
 公的場で、神道の地鎮祭などが行われ、クリスマス・ツリーが飾られ、サンタさんが登場するのは、フツーのことで・・・
 
 感謝のこころをこめた「合掌」は、フツーじゃないのか・・・
 
 「合掌」って、「もったいない」同様、世界に通じる「こころ」の作法じゃないのか・・・
 ヘンな「宗教排除」・・・これで、本当に子ども達に「おかげさま」「生かされて生きている謙虚さ」などの 大切な「こころ」が伝わるのでしょうか?

 F氏には、「こころの教育」の面で、一宗教や宗派に偏らない、一僧侶の立場からのご活躍を期待しております。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

総体

2007年07月28日 | 佐賀ネタ
 全国高校総合体育大会「2007青春・佐賀総体」が、開会式に皇太子様をお迎えして、きょうから、始まりました。

 午前中の開会式は、法務に出ていて見ませんでしたが、閉式後行われた、地元高校生 約1300人による、「佐賀の風」をメーンテーマにした公開演技を少しテレビで見ました。(写真が小さくてわかりにくいのですが、そのワン・シーンです)

 きょうも猛暑の佐賀です。ジリジリ照りつける日差しの中で、高校生達が爽やかに演技をしていました。

 全国からおみえの出場選手の皆さん、怪我、事故のないよう、日頃の練習成果を出して、よい思い出を作っていただきたいと、願っております。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

地デジの謎

2007年07月27日 | 雑感
 昨日36℃、きょうは、36.6℃だった佐賀で~す。 
 先日、居間のクーラーから、室内にポタポタと水漏れがあったので、ご門徒で電器店店主のK氏が修理に来てくださいました。

 その折、今年K氏から購入した、居間のデジタルテレビで「地上デジタル放送」を・・・、同時に、寝室のアナログテレビで、今まで通りの「アナログ放送」をつけていると、
 同じ番組の「地デジ」は、「アナログ」より、映像・音声が2秒くらい遅れる。

と、いうことは、時報も遅れるってことなのか オバサン、ずっ~と、疑問に思っていたので、K氏に尋ねてみました。

 K氏も同じ疑問をもっておられたそうです。K氏曰く、
 映像・音声が、一番早いのが、アナログ、次がBS、そして、一番遅れるのが地デジなんだそうです。

 K氏は、「たぶん、地デジでは、時報を、映像・音声より、早めに出しているんじゃないかなあ・・・」と・・・

 今朝、出勤前、寝室で着替えていた夫に、「(アナログの)時報のカウントが変わったら、教えて」と声をかけ、私は、居間で、地デジの時報を見つめる。

 夫が合図するのと、カウントは同時だった。つまり、時報は、ずれない ってことです。(当然といえば、そうなんですが・・・)
 
 K氏も言われていましたが、そういえば、最近テレビで、時計の映像が出て「ポ、ポ、ポ、ポー」と時報をジャストを知らせる映像が無くなったような・・・

 地デジは、音声・映像は、アナログより2秒程度遅れるが、時報は遅れない 

と、いうことを朝、夫婦して、実験? して、納得したのでした・・・
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

都市にお寺

2007年07月26日 | 仏教
 最高予想気温35℃の佐賀です。

 さて、地方を離れ大都市にお住まいの方が、地方の檀家寺を離れられるケースが増えています。

 故郷には誰も残っておらず、わざわざ地方までお参りできないので、境内地のお墓も処分され、お骨を都会へ移されるケース。
 
 ウチでは、そのような場合、全国の浄土真宗本願寺派寺院名簿を調べて、その方の現在のお住まい近くのお寺さんをご紹介しています。
 
 ただ、残念なことに、本願寺派の寺は、関東圏に大変少ないのです。

 先日も、法専寺を離れられるため、ご両親のお骨を引き取りにみえた、現・東京都M市在住のA氏の場合も、M市には、本願寺派の寺は一軒しかありませんでした。

 地方の過疎地のお寺は、世の流れと共に統廃合を余儀なくされ、都会にはお寺がない・・・という状況なのです。
 
 そのような中、東京首都圏都市開教対策本部が設置され、若い僧侶の方々が首都圏に布教所を新たに開設され、頑張っておられる記事をたびたび目にするようになりました。

 また、東京(築地本願寺)、名古屋(名古屋別院)、京都(本山)、大阪(津村別院)を会場に
 
 「離郷門信徒のつどい」 開催が勧められています。

 これは、お寺版「同窓会」みたいな集いです。

 例えば、本願寺新報記事によると、島根のS寺さんが、本山でこの集いを開催され、地元、京阪神、関東から、162人もの S寺さん門信徒の方々が参加されたそうです。

 いいですね。楽しそうですね

 法専寺も後継者ができたら、「離郷門信徒のつどい」を「法専寺団体参拝旅行」と合わせて開催できたらいいなあ・・・と、思っております。

 後継者はいつになるか、わかりませんので、今すぐでも、ご要望あれば、そして、私でもよろしければ、「法務」ということで、正々堂々、家を空けて、都会へ参りますよ~
 


 
 
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

本山で盆踊り

2007年07月25日 | 行事・案内
 8月1日、ウチの組の「児童念仏奉仕団」(子ども達の本山参拝・奉仕活動の団体旅行のこと。 相変わらず、このネーミングですよ~)が京都へ出発します。
 その8月1日夕方5時半から、本願寺恒例の「納涼盆踊り大会」が北境内地で開催されるそうです。
 本願寺新報記事によると、1973年、親鸞聖人生誕800年に際し、真宗教団連合が製作した
「しんらん音頭」(サトウハチロー作詞・安藤実親作曲)

の振り付けが、この度新しくなり(京舞井上流家元・井上八千代さん振り付け)初披露されるそうです。

 佐賀から子ども達を引率してくださる、若手ご住職さん方 しっかり、振り付けを覚えて来て、佐賀でもご指導下さいね

 当日「納涼盆踊り大会」に先駆けて、

 午後から「本願寺納涼フェスタ」が門前町中心に初開催され、
龍谷大学吹奏楽部を先頭に京都女子大学チアリーディング部、平安中高、北陸高校の生徒が堀川通りをパレードするらしいですよ。

 お近くの方は、どうぞ沿道でご声援、ご参加くださいませ。

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

こころの余裕

2007年07月24日 | 仏教
 本願寺新報7月20日号 の 友久久雄先生(龍谷大教授・京大病院医師)のコラム「楽に生きる」に「心が変える時間の長さ」という記事が掲載されています。

 カウンセリングにおいて、子どもが話をしてくれないという親の訴えがよくある。子どもに聞いてみると、親が話を聞いてくれないからだという。

 私も、たびたび、子どもから「話す気が失せた」と、しかられる。
 だいたい、バタバタしながら、聞いている時・・・その「~しながら、ついでに聞く」という態度が、子どもにとって落胆、許し難いことのようです。

 そうですよね。例え、ちゃんと話を聞いているとしても、「~しながら」って態度で聞いていたのでは、話手は、自分の話をきちんと聞いてくれているとは、受け取れないし、話しづらい、当然です。

 友久先生は、
 話し手が話しやすいかどうかは、聞き手の態度に大きく左右される。心にすれ違いのある親子では、親が心の中で子どもを責めたり拒否しながら聞いている場合が多い。(略)重要なことは、親が子どもの心に添って話を聞くことである。(略)
 心が時間を変えるということがある。心しだいで、同じ二分も長くも短くもなる。

 私は、子どもが愚痴を言う時に、うんうんと聞かずに、すぐ、子どもの話の途中で、自分の意見を言いたくなる、それも子どもを責めるようなことを・・・
 これでは、子どもを激怒させ、
「二度と話したくない」と思わせてしまうのは、当然・・・

 子どもは、ただ、ツライ気持ちを親に聞いて欲しいだけなのに、気持ちに添ってくれるどころか、親の価値観や、もっともな意見を頭ごなしに言われては、たまらんだろう・・・
 他人様には気遣いしても、遠慮がない分、家族には配慮が足りなくて・・・
 家族の気持ちを思いやる、心に余裕 がないことが多い。
 
 そんな未熟な私のことを書かれているようで、大いに反省させられました。

 
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

幽霊

2007年07月23日 | 仏教
 養老猛司 氏の「I know you 脳」 かまくら春秋社  を読んでいたら、「幽霊」について、こう書いてありました。

 p16 「死人に死体がないと幽霊になる。この幽霊というのが、なかなか面白い発明である。人が死ぬと、体が残って、はたらきが消える。そこがどうしても納得が行かない。そういう人が多いらしい。そこで、はたらきだけを、死体とは別になんとか残そうとする。それが幽霊になる」

 お釈迦様の教え(仏教)において、「私」というこの身体・意識は、いろいろな縁によって、仮に成り立ったもので、一刻一刻変化し、「私」という「我」は「常」なるものではない。
 従って、生前の「我」という意識が、死後に、「霊」として残るとは、考えられない。(これは、真理です)

 というわけで、「幽霊」の存在は、ありえませんが・・・

 この世のことは、全て、各々の人が、各々認知する世界(私が見る世界)ですから、「私は霊感が強くて、霊が見える」と仰る方にとっては、「霊」が現存するのでしょう。
 
 以前、最愛の奥様を亡くされたご主人が、

「妻が台所にいた」「妻が居間を歩いていた」

と、映画「シックス・センス」のワンシーンのようなことを真顔で話され・・・
私は否定も肯定もせず、「そうですか・・・きっと、ご主人のことを心配されておられるのでしょう」と、うなずいて聞きました。

 再び養老猛司氏の上記著書p18 

 幽霊に示されるのは、われわれの身体の機能すなわち「はたらき」である。はたらきには、前にも述べたように、本来は形がない。それに無理に形を与えた物が幽霊である。そう考えれば、幽霊の発生の必然がわかる。死んだ人を目で見れば、「死体」だが、「耳を澄ませて聞けば」それは幽霊なのである。

 死者の生前の「我」は残らないが、死者の生前の言動や「思い」は、確かに残る。
 この世に生前の感情のまま「幽霊」として残るのではなく、広大な智慧と慈悲に目覚めた「仏」に転じられて、後の者を真理に導く「はたらき」になる。

 養老氏の言われる「耳を澄ませて聞けば」それは幽霊 を 転じて 

 「幽霊」ではなく、「仏となられた故人の願い・はたらき」を「耳を澄ませて聞く」「心をあわせる」

 それが、私の味わい方であります。

 
 ところで、オバサン、物語としては、幽霊物好きですよ
 血が飛ぶホラー物は大嫌いですが、残酷シーンなしに、ただゾ~っとするの、大好きです。

 一人深夜、シャンプー、シャワーを浴びていて、背中に人の気配を感じるとか、・・・

 むむむ・・・でも、若い女性なら絵になっても、オバサンの風呂場に立つ、物好きな幽霊はいないだろう・・・
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

修行

2007年07月22日 | 雑感
 きょうは、ウチでの法事客 一組。
 仏事後の会食中、退屈して、庫裏まで走り込んできた幼児二人と、オバサン、仲良くブロックやコマ、絵本で遊んだりしておりました。

 「いっしょに遊ぼう」と声をかけられ、手をつないでくれて、私、とてもうれしかった

 暇になった午後は、テレビで 映画「解夏」を観ました。
 ベーチェット病で、視力を失う青年と恋人の苦悩のお話。

 その中で、「夏安居(げあんご)」の話や、夏安居 最終日の「解夏(げげ)」が紹介されていましたね。
 主人公の青年の病気を知った、禅寺で会った郷土史教授の言葉が、心に残りました。
 「目がみえなくなる恐怖とたたかうのが、修行」「見えなくなった時がその恐怖から解放される時で、それが、あなたの解夏」(正確なセリフは分かりませんが・・・)

 私の叔父も全身の筋力が徐々に衰えてゆく難病におかされ、もう何年になるでしょうか。
 今は、一切身体を自由に動かすことができません。
 食事を飲み込むことすらできず、ものを言うことも叶わず・・・かろうじて、瞬きで、yes、noを意思表示。

 意識が、はっきりしているだけに、これほどの苦しみが、あるでしょうか。

 
 また、別の伯父は、脳梗塞で倒れた後、認知症になりました。

 穏やかな性格の伯父でしたのに、認知症状で性格が一変し、お世話してくださる看護師さんに暴力をふるうのだそうです。伯母がお詫びに周り、難儀しているとのこと。

 治癒の見込のない病の苦しみ・・・自分の思い通りにならないこと・・・本人も家族も、それをどう受け入れ、どう乗り越えて、生きてゆくか・・・

 この苦しみの先に、「よく、頑張ったね」「よく、生き抜いたね」と阿弥陀様に迎えられる仏の世界・浄土があるからこそ、「救い」なんだと・・・

 この人生を明るく生き抜くのは、まさに難行苦行だと、「解夏」を観ながら、あらためて思ったことでした。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

立花

2007年07月20日 | Weblog
 昨夜は、生け花のお稽古日でした。師匠は、ご門徒さんでもあるM・K先生。

 M・K先生宅へ月2回、伺って、生け花を教えていただくようになって、もう、かなりの年月になるのですが、未だにヘタな私です・・・
 草物中心の立花くらい、もっと短時間で、ささっと 生けられなくては、いけないのに・・・

 熱心にご指導いただいているのに、師匠、ごめんなさい 

 写真の作品は、昨夜3時間がかりで、モチャモチャと私がいけた後、師匠が手直しをしてくださった 立花です。(以前は「立華」と表記していたのが、最近は「立花」になりました)

 よく、ドラマでは、生け花を着物姿で、しずしずと・・・というイメージですが、特別な儀式を除いて、アレは、ウソですね。

 特に木物を扱う「一種いけ」等の生花、あるいは、昨晩のような「立花」をいけるのは、しずしず どころか、ナタで削ったり、枝をバキッと折りつけたり、針金巻いたり・・・大工仕事に近いです。

 昨夜の立花は、葉物が中心ですから、ナタをふるう大仕事では、ありませんから、決まった約束事にそって、型を作っていける 工作作業・・・といったところでしょうか。

 針金を巻くのが慣れない時は、「『立花』って何て面倒なんだろう」と、思っていましたが、今は、ヘタなりに楽しんで作業しています。

 ちなみに、「法専寺の歌」を作詞してくださったのは、私の生け花師匠M先生のお母様です。
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする