男女の愛ばかりではなく、それ以外の愛の多様性を認めることはやぶさかではないが、人類の営みのなかで、夫婦愛というものが、自然の生き物としての営みにそっていることだけは否定できない。
京都学派の高山岩男は『教育哲学』において、夫婦愛について深い洞察をしており、一読するに値する。
高山は「夫婦は一個の人格であり、男女は夫婦になって一個の完全な人格となすと考うべきである」との考え方を示す。つまり、男女が一緒に暮らすことだけでは、それぞれが完全な人間になったとはいえないというのだ。それはまさしくヘーゲル的な理解ではあるが、それなりの説得力がある。
「夫が夫たり妻が妻たるのは、すなわち人間的な夫婦たることはそう容易なことではない。人間的な夫婦となり、子を生み親となって、はじめて完全な資格の人間となる。この場合もただ産みっぱなしの親で、子を一人前の人間まで育て上げることをしないならば、まだ親であって親ではない。親たることもまた容易な業ではなく、責任の自覚とそれに応ずる苦労があって初めて人間的な親となる」
高山の言説というのは、あくまでも夫婦愛について生命の連続という観点から語っているだけであり、それ以外の愛を認めないわけではないのである。
多様な愛の形を学校などで教える場合には、性的なものを通して結ばれる夫婦愛の責任と自覚についても、同じように教える必要があるのではないか。単なる浴室やトイレの問題ではなく、LGBT法案はもっと根源的な人類に対する問いかけを含んでおり、簡単に結論を導き出すことは難しいからである。